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2009.07.17
祟りというコミュニケーション

ネイチャージモンのDVDを見てから、人間と自然が分離してしまった近代というものを考えることが多くなった。ひとつの視座をもったというか。
人間の思考には歴史的な限界というものがある。マスコミがつくりあげた世界観のように簡単に超えられる限界もあるだろうし、近代や科学といった簡単には超えられないがドグマには違いない限界もある。でもその限界を晴れ晴れと超えていく、裂け目というものはいろんなものをじっくりと観察すれば得られると思う。
石ひとつとってみても、神様が寄りつきそうな石とそうでない石はわかる。木でも瀧でも島でも…。その感覚は古代人と同じものなのだろうか。それは普遍なのか。
そうではあるまい。山野を潰しダムを作るには、それと見返りに生贄を神に捧げる儀式が必要だった。大木を伐る場合は斧を立て、神様にお伺いをたて、祝詞をあげた。
循環型社会や持続可能な社会の構築を目指す場合、このような感受性なしには無理だと思う。
しかし、この感受性を「教え」たり「指導」したり「醸成」したりすることは可能なのか。
ここに「ばち」や「たたり」という観念が立ち上がってくる。
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