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日本でもかなり大きな環境団体の会員なのだが、
そこのメーリングリストでは日々様々な意見交換がなされている。
ここでの意見交換は常にポジティブで明るく、お互いを励まし合い、
希望に満ちた社会づくりへの覇気に満ちたものだ。
しかし、そこへある女性が不協和音を鳴らすように、
ある種の不平、独断的な意見を投稿したところ会員の非難を浴び、
退会まで促されるところまできた。
わたしはこの女性の根底にある甘えは問題だと思うが、
排除の方向にまで追い込まれていく状況には強い違和感を覚えた。
支配を忌避する組織のなかに支配がある。


退会の促しはポーズかもしれないし、本気かもしれない。
本気の人もいるだろうし、そうでない人もいる。暖かく見守る人もいる。


この人を救う(救うというのは傲慢だが仮に)こと、
それは本人自身の力によるしかない。
それは間違いない。


しかしこのどうしようもないような人であってさえも、
受け入れることができない組織とはなんなのであろうか。
心の問題にもふれる組織として。


この排除性がこの組織の限界だとは薄々気づいていた。
みんなイエスマンだ。


ある力。強靭な。統制への。
これはある目的を達するためには必要なものだ。
加速することが必要だ。
強制的なものがなければ、人は重い腰をあげないかもしれない。
しかし力とは、すべからく暴力のことではないのかとふと思ったのだった。


あるコミュニティ。
ここは来る者は拒まず、去る者は追わず。
コミュニティとしての最低限ルールがあるのみで、
運営はゆるい。もちろんここには主催者の頑張りがあってのことだろう。
そして営利を追求しているのでもない気楽さもあるだろうし、
なんら目標もない。組織とコミュニティは違う。
でもこの風通しのよさにいつも希望や明るい未来を感じるのは確か。
このコミュニティにも場違いな人はいるけど、
みんなある意味場違いな人たちかもしれないけど、排除はない。
排除するまでもないということか。


やがては解散する、ということが重要なのだろうか。
なにかを長く維持しようとするから、不純物を取り除こうとするのか。
その場、その場。


目標のない組織、会社を夢想した。


少しでも具体的であることを誤りとする、
韓氏意拳のことを思った。


自分が映画を撮り始める時、
そのことを留意しよう。
ゆるいコミュニティのように映画を撮りたい。


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