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2014.03.16
覚醒・救い・中国行きの・・・
PTA(ポール・トーマス・アンダーソン)の2012年の映画「ザ・マスター」を見ました。
(以下少しネタバレあります)
一貫してPTAは救われない人間を説諭して救おうとすることに関心があるようです。
顔の迫力、ショットの充実、色調、ホアキン・フェニックスのなで肩、顔の歪み、
映画でここまでできるという発見がありました。
このレベルは日本映画では到底出来ないと歯痒い思いさえしました。
いつか大阪で路頭に迷った男が新興宗教かなにかの組織に入り、そこの儀式でなにかを飲み、
願い事を書く紙を渡されると、「自分にはそんな資格などない」と泣き叫び、
そこを離れ、タコ部屋の個室ビデオ店に火を放って多くの死傷者を出した事件を、
そしてこの逮捕されたときの男の顔をただひたすら思い出しながら、この映画を見ました。
わたしは宗教を否定しません。
しかし宗教を信仰している人を何人も見て思いますのが、
その救われ方の浅さです。
わたしはあるとき唐突に覚醒体験をしました。
鳥の声の意味がわかり、人の思考がリーディングでき、地球の全体の出来事に涙しました。
人に向き合うとき、それぞれの人生にテーマがあることが、フィルムに光が感光するように
じわっと滲み出して伝わるのです。
宗教家の語る業(カルマ)や転生といったことを自然に体認していました。
肉食をやめ、玄米菜食を主とし、酒やコーヒーを飲まなくなりました。
悩みやストレスが消滅し、朝の太陽の美しさに愕然とする毎日でした。
隣人をホームレスを愛し、憎しみや怒りの心が消滅しました。
ここから宗教を生み出せるとさえ思いました。
でも根底にあったのは謙虚さと使命感でした。
こんな体験をしてしまった者の使命があると思いました。
わたしはたくさんの覚醒体験談を読んでいました。偉人から一般人までの。
それゆえこれが一時的なものであることはわかっていたし、この状態が消えてしまうのが怖かったです。
この状態を維持しようと毎朝4時には起きて、外で真っ暗闇の中呼吸をし、
精神世界の本をむさぼるように読んでいました。
1ヶ月ほど経つと、この覚醒体験の「効能」は弱まっていきましたが、
徐徐の変化であったため日常にまぎれて、悲しさもありませんでした。
いまでは多少の肉も食べるし酒も飲みますが、菜食の方が心身は安定します。
私はこの「ザ・マスター」という映画をまったく違った次元でも見ていました。
ホアキンは最後、ザ・マスターと呼ばれる教祖の元を去ります。
その選択が最良のものであるのかは誰にもわかりません。
わたしは覚醒体験により見えた風景によって確かに変わりはしましたが、
おもしろいことに再び肉を口にすることの方が重要に思えました。
あばら骨の浮き出た釈迦が悟りの後、少女の持ってきた乳粥を口にしたのはなぜでしょう。
こんな釈迦に失望した修行僧は5人いたようです。
このとき釈迦は輝く金星を見たと言いますが、大分の明け方の東に強く輝くのは金星でしょうか。
少女の名前はスジャータ(善生)と言いますが、あの食品メーカーのスジャータはここからきたのでしょうか。
救いや覚醒、悟りといったものはあくまである〈状態〉を示したもので、
体験すればすれで終わりといったものではありません。
仏陀のことを永遠の覚者と呼ぶように、その状態が持続できるのは、
一部の人だけでしょう。ここを勘違いすると宗教はカルトになります。
気をつけないと教祖はいつの間にか腐臭の漂う便所のようになってるでしょう。
「自分には救済される資格などない」と泣き叫んだ男は死刑にされます。
その魂はどこに行くのでしょう。
映画の終わり、別れ際、教祖は「ON A SLOW BOAT TO CHINA」を歌います。
あなたを小さな船に乗せて
中国までゆっくり行きたい
あなたを独り占めしたいわ
(以下少しネタバレあります)
一貫してPTAは救われない人間を説諭して救おうとすることに関心があるようです。
顔の迫力、ショットの充実、色調、ホアキン・フェニックスのなで肩、顔の歪み、
映画でここまでできるという発見がありました。
このレベルは日本映画では到底出来ないと歯痒い思いさえしました。
いつか大阪で路頭に迷った男が新興宗教かなにかの組織に入り、そこの儀式でなにかを飲み、
願い事を書く紙を渡されると、「自分にはそんな資格などない」と泣き叫び、
そこを離れ、タコ部屋の個室ビデオ店に火を放って多くの死傷者を出した事件を、
そしてこの逮捕されたときの男の顔をただひたすら思い出しながら、この映画を見ました。
わたしは宗教を否定しません。
しかし宗教を信仰している人を何人も見て思いますのが、
その救われ方の浅さです。
わたしはあるとき唐突に覚醒体験をしました。
鳥の声の意味がわかり、人の思考がリーディングでき、地球の全体の出来事に涙しました。
人に向き合うとき、それぞれの人生にテーマがあることが、フィルムに光が感光するように
じわっと滲み出して伝わるのです。
宗教家の語る業(カルマ)や転生といったことを自然に体認していました。
肉食をやめ、玄米菜食を主とし、酒やコーヒーを飲まなくなりました。
悩みやストレスが消滅し、朝の太陽の美しさに愕然とする毎日でした。
隣人をホームレスを愛し、憎しみや怒りの心が消滅しました。
ここから宗教を生み出せるとさえ思いました。
でも根底にあったのは謙虚さと使命感でした。
こんな体験をしてしまった者の使命があると思いました。
わたしはたくさんの覚醒体験談を読んでいました。偉人から一般人までの。
それゆえこれが一時的なものであることはわかっていたし、この状態が消えてしまうのが怖かったです。
この状態を維持しようと毎朝4時には起きて、外で真っ暗闇の中呼吸をし、
精神世界の本をむさぼるように読んでいました。
1ヶ月ほど経つと、この覚醒体験の「効能」は弱まっていきましたが、
徐徐の変化であったため日常にまぎれて、悲しさもありませんでした。
いまでは多少の肉も食べるし酒も飲みますが、菜食の方が心身は安定します。
私はこの「ザ・マスター」という映画をまったく違った次元でも見ていました。
ホアキンは最後、ザ・マスターと呼ばれる教祖の元を去ります。
その選択が最良のものであるのかは誰にもわかりません。
わたしは覚醒体験により見えた風景によって確かに変わりはしましたが、
おもしろいことに再び肉を口にすることの方が重要に思えました。
あばら骨の浮き出た釈迦が悟りの後、少女の持ってきた乳粥を口にしたのはなぜでしょう。
こんな釈迦に失望した修行僧は5人いたようです。
このとき釈迦は輝く金星を見たと言いますが、大分の明け方の東に強く輝くのは金星でしょうか。
少女の名前はスジャータ(善生)と言いますが、あの食品メーカーのスジャータはここからきたのでしょうか。
救いや覚醒、悟りといったものはあくまである〈状態〉を示したもので、
体験すればすれで終わりといったものではありません。
仏陀のことを永遠の覚者と呼ぶように、その状態が持続できるのは、
一部の人だけでしょう。ここを勘違いすると宗教はカルトになります。
気をつけないと教祖はいつの間にか腐臭の漂う便所のようになってるでしょう。
「自分には救済される資格などない」と泣き叫んだ男は死刑にされます。
その魂はどこに行くのでしょう。
映画の終わり、別れ際、教祖は「ON A SLOW BOAT TO CHINA」を歌います。
あなたを小さな船に乗せて
中国までゆっくり行きたい
あなたを独り占めしたいわ
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