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私とあなたを隔てていた「私」という強固な外壁が最近崩れる体験をして、
この体験について書かれているような本を求めるようになる。
というかそういう視点で哲学書や小説、精神世界の本を読むようになったというべきか。
会社帰りの電車で横に座った女性が深く眉間にしわを寄せて目をつぶっている。
以前はなんの関心もなかった普通の風景のようだが、
今では簡単に他者と同期(同気?)でき、
見知らぬ他人とでも寄り添うことができる。精神的にだが。
そこには身体という制約であったり、あるいはジェンダー、社会的な決まり、
会社での人間関係、将来の不安、過去の後悔等々、これでもかと自分を縛り付け、
苦悩を助長し、鍵の開いている牢獄に、
みずから入っていっているのがよくわかる。
その者に課せられたテーマ(人によってはカルマと呼ぶ)さえ見ることができ、
具体的に名指すことはできないものの、それが「ある」ことは実感として迫ってくる。
そして理屈ではなく、ああみんな一つなんだと言いしれぬワンネスの感情が
反転して私を包んだ。
人類皆兄弟という言葉は比喩でもなんでもない。
たとえば生き別れた双子の兄弟と何十年ぶりに町で偶然再会して驚喜するように、
見知らぬ他者と、同じ電車に乗った他人と、日々すれちがったときに
驚喜してもいいのだ。他者はたんなる風景の一部ではない。
そうしたときまだ出会ってもないあなたの部屋に飾られている
サパティスタ民族解放軍のポスターが私にとどくのだ。
ファシズムのような熱狂、ドラッグによる恍惚、宗教団体の輪、
どれも偽装されたワンネスだ。
恋愛のさなか性的体験の私とあなたが不可分になる、触っている手が触られる
感覚器官そのものになる主客の転倒それも、偽装されたワンネス、
でもワンネスへのヒントにはなる、本当のワンネスには、
媒体するものがない直接的で自然なものだ。エクスタシーとは無縁な静かなものである。
だからフェスやコンサートのような飛びはねとも違う、
でもこれもワンネスへのヒントになるから大いに推奨したい。
われわれは初めから自由である。
現代哲学はこの一言を見いだすために奉仕される尊い営みだと思う。
私はフェイスブックをやっているが、そこにはこういうことは書かない。
昨日はおれ70歳だった、今日は20歳だった、そう書いてもいいが、
あそこはひとつの「常識的」な社会だから、そちらの言葉で語らなければならない。
それはそれで重要なことだ。
ホームレスが橋の下で黒いゴミ袋に顔を突っ込んで寝ていた。
いたたたまれなくなって声をかけた。生きていた。
車通りの多いところ、だれもが無関心だった。
近くには宗教施設が点在している。救済を叫びながら、ホームレスは対象外だった。
お金をくれる人が救済の対象。
宗教団体は宗教とは関係がない。
マルクス主義者がマルクスとは関係がないように。
本物の宗教とはマザーテレサのように、あるいはガンジーのように、
たったひとりの謙虚な慈悲心から生まれる。
お金ともましてや政治とも関係はない。
何度でも云うが、いや初めて云うが、つまり大事なのは愛である。
それも組織、団体からではなく、単独から広がっていく愛である。
それだけが自由である。
過去もない、未来もない。
今だけでお腹いっぱい。
過去を許し、他人を許し、自分を許すことができた。


7月21日の選挙に行こう。
美しい国にするといいながら原発を推進する党を躍進させてはいけない。
候補者の言い分ではなく、党の方針をよく読もう。
当選したら候補者はたんに党の方針に従うだけである。

争点は三つ。
1TPPの推進
2原発の再稼働
3平和憲法の改正


TPP賛成→自民、維新、公明、みんな、幸福実現
原発推進→自民、幸福実現
原発ゼロ→生活、共産、社民、みどり、大地、緑
9条改憲→自民、維新、幸福実現


原発ゼロを支持する党がなぜまとまらないのか、、なぜ連帯できないのか。
私とあなた、おれの土地、あなたの土地、おれの財産、あなたの財産、おれの国とおまえの国、
線を引いていくのがほんとに好きなんだなあ、古い人間というやつは。

小森陽一

自民党改憲案

otromundo_chico.jpg
EZLNポスター

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