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夢は毎日見ているが、そのパターンはごくごく少ないのではないのか。


ぼくは最近いくつかの夢を保持しながら目覚める、そしてこれは何度も見ていると確かに思うようになっている。とくに嫌な感じの夢はトラウマを解消するがごとく何度も何度も見る。それを乗り越えようとする。ぼくは高校から予備校浪人まで新聞配達をしていた。3時過ぎに起きての新聞配達はほとんど誰しもが無意識状態で配っていることを知っているだろうか。そんななか誰もが恐れていたのは「不着」と呼ばれる投函忘れのミスで浪人生の頃は管理者の粗暴な佐野さんという50すぎぐらいのおっさんが寮生活をしていたぼくの部屋のドアを乱暴に叩いて「不着じゃ」とそのたびに怒鳴った。彼が部屋の前を通るのを誰もが恐れた。

新聞が朝読むべき時間にお客さんの手元に届かないというプレッシャーは相当なものなのです。これがだいたい月に一、二度程度だから優秀といえば優秀かもしれないが、不着そのものよりも不着してしまうかもしれないという先取りされた恐怖感は新聞配達をやめた後も夢に何度も何度も出続けて、夢の中で脂汗をかかせます。なにしろ無意識で配っているものだから、確かに配ったかどうか自信がないのである。昨日やおととといと今日の記憶がごっちゃになって、あらためて振り返ると確かなものがどこにもないって、これ泥沼ですよ。

棋士の米長邦雄は負けが見えてくると局面をわざと複雑難解なものにしてみずからも混乱するなかで勝利をもぎとっていくという棋風をもった。その棋風は「泥沼流」と呼ばれた。ぼくはこの「泥沼流」という言葉がいたく気に入って、ばれたくないHなビデオの背表紙ラベルに泥沼流と書いてごまかした。


こうして記述しているのは「もう終わったことなんだ」と夢の自分に訴えかけたいためである。もう配らないでもいいし、不着を恐れる必要もない。夢のなかで、なんどもなんども同じルートを回って確実に投函したかを確かめているじぶんがいるのです。いまだに恵比寿あたりを配ってますよ。日経新聞ですけど。

月明かりのない東京の朝まだきの光景はじぶんだけのもののような錯覚がありました。じぶんだけが見ている気がした。今考えれば、それは見られていたんだけど。ビルディングのてっぺんにつけられた航空機用の赤い障害標識のランプが、呼吸しているかの如く明滅している朝の光景とか。闇が白くなっていくのを毎日まるごと味わっていたのは今考えれば賜物でした。


小島信夫の『菅野満子の手紙』を読了する。
小島信夫以外の小説が幼稚に見えてしまって、小島信夫以外の小説が読みづらくなっている。
作者の「作為」とか「手つき」が見えてしまうともう興ざめなのだ。
もちろん小島信夫にも作為はある。
でもそれが途方もない作為だから目眩がするのである。


侮辱なのだろうか。私はなにも知らない。
生きていても死んでいても知らない者へ知らない過去へ未来へどんどん投函していく。
意図的であろうとなかろうと多くの思想家、評論家は被災者や死者を利用しているという言葉を恐れる。


長く生きていればそれだけいろんな人の死を見ることになる。
その死から振り返ると、人には定められた運命があるかもしれないと思わせる作用がある。
でもそれは死んでから初めてわかる。
将棋の妙手と呼ばれるものは、指されるまではそれが妙手だとはわからないけど、
指された後にああこれは妙手だとはっきりわかるという。
それを思い出す。いや、もうこのへんでやめなければ。書かせられている。



今頃かもしれなくて情けないが、最近、わたしがもとめているのが希望ではないことがはっきりわかって元気が出たことをいろんな人に伝えたい。


世界はまだ不幸だってさ
ありあまる富


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