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2011.07.10 草の上
熱波。
蝉が季節に遅れまだ鳴いてない。
洗濯物が瞬乾。
瓦が銀色に照り返し、草が萌えてる。


何人かの方から以前引用したドゥルーズの雑草の氾濫について質問される。
ええっと、なんの著作のどこからの言葉だったか、、記憶が曖昧。
曖昧だが、雑草について書かれたそのところでドゥルーズの言っている<リゾーム>という概念がふっと体の芯にはいってきた実感は今でも消えない。


ああ、あった。
長いが『千のプラトー』の序章からまるまる引用してみる。

「われわれはリゾームあるいは草を失ってしまった。ヘンリー・ミラーは言う――”中国は人類というキャベツ畑の雑草だ。…雑草は人間の努力の復讐の女神である。われわれがもろもろの植物、動物、星などに託しているあらゆる想像的生活のうちで、いちばん賢明な生活を送っているのはたぶん雑草である。確かに草は花も産み出さなければ、航空母艦も、それから山上の垂訓も産み出すわけじゃない。…けれどもとどのつまり、つねに最後の一言を言うのはいつも草なのだ。とどのつまりすべてが中国の状態に回帰するのだ。それは歴史家たちが一般に中世の暗黒と呼ぶものである。草以外に出口はない。…草は耕されない広大な空間のあいだにしか存在しない。それは空虚を満たすのだ。それはあいだに生える、ほかのいろいろなものにはさまれて。花は美しいし、キャベツは役に立ち、ケシは人を狂わせる。けれども草は氾濫であり、それは一個の教訓なのだ。”」


若干文言の記憶違い。
ドゥルーズそのものの言葉というより、ヘンリー・ミラーの著作からの引用だった。
唐突な「中国」には戸惑うが雑草への讃歌を通して<リゾーム>を体感する。


年々庭の草の繁茂が激しくなっている。
理由はなく、ただ一個の教訓として。


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