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老いてすでに引退した原発作業員400人が志願して原発収束にあたるというニュースに胸が熱くなる。クリント・イーストウッドを思い出した。


7月。TOP画像を換える。


ある環境系NPOの年に一度の総会に参加する。
いつもはコアな人しか来ないけど、今日は初見の人がちらほらいたから名刺交換をする。
そのうちの一人は40代はじめくらいの大学教授だった。
研究職の人が来るのは珍しいなと思った。
総会での協議が煮詰まってきて、ひとりずつ何か喋ってもらうということになった。
みな思い思いに原発事故後のNPOのあり方について喋る。
自分は再生可能エネルギーについて喋ったような気がする。


つぎにその教授の話す番がきて、なにを喋るのか期待して聴いていた。
はじめ広瀬隆の著作を出してきて、いろいろ喋り始めたのだが、そのうち例会通信がどうとかとか、地下存在がもうすぐ地上にあがってくるとか、その地下存在が首相と会談予定だったのがモサドの計略にはまって突然中止になったとか喋り始めて、さっきの例会通信の例会って「霊界」のことなのかとふと頭を働かせ、真顔で話すその教授と周囲の凍りついた空気とか、とにかく唇が発狂していた。


そんな話を延々と聴いているうちに(だれも止める勇気がなかった。話そのものは陳腐だったかもしれない)狂気とか自分は正常であるとかそういうことが線引きできていることの不思議さを思ったりした。環境系への関心と精神世界はすごく結びつきやすいし、それがオカルトにまでいく人もいるだろう。


この世界を支えているものはなにもない。北一輝の言うように、神は結論を与えて説明を避く。地震にも津波にも説明はない(原発は説明できるが)。説明がないことこそが自分にとって救いだと思うけど、そんな人間は少数派だろう。人工地震だとすれば説明できてしまう。それで世界のつじつまを合わせる。それがオカルトの源泉かもしれない。


オカルトとオカルトっぽいけど全然違うものの区別は自分の中では明確にある。
UFOは心の底から見てみたいと思う。
虫の知らせとか、神社の清浄さとか、巨木への畏れとか、
そういうのは自分の身体感覚と強く結びついているけど、
地下存在とか人工地震は自分から遠い。
それは科学的に説明できないからではなく、
設定そのものの退屈さ、チープさが面白くない。
それはどこまでも科学的ですらある。
外にあることの豊かさはない。
精神の怠惰だ。


図書館や本屋ではなぜか哲学と精神世界が隣り合って分類されている。
いや積極的に混同されていさえする。


リンチの映画「インランド・エンパイア」にはまるで映画の外に置かれたかのように、映画のスタッフからお金を借りまくる製作助手の人間が出てくる。この教授にはそのような目の前なのに、ものすごく遠くに居るような男だった。とても無害でいい人なんだけど。


オカルト系の人たちに多く共通する鈍感さ。
自分のこの世界観が激しく拒絶されることへの空しさや孤独感がまるでない。
話せば空気を引き裂き周囲は引いてしまうということを先取する意識がほとんどない。
結局なにを書きたかったのか。
「不合理ゆえに吾信ず」がこの世界で生きる作法だとしても。


まともだと思われた教授が地下存在とかUFOとかについて語り始めた瞬間は、吹きそうになるのを抑えつつも、じつはとても感動していた。なんでもありって、なんでこんなに勇気が出るんだろうって。出鱈目な事に感動。素直に解放された。


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