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2010.06.07
二つのレント

googleのストリートヴューとか定点カメラのlive中継によって、かつて自分の縁のあった場所を見ると、とても深いところから過去が立ち上がってきて、「風景」というもののが圧倒的な過去の厚みとなって一挙に迫ってきて、立ち尽くしてしまうほど。打ちのめされるといってもいい。別にその風景にトラウマのような傷があるというわけではないが。だけど呆然としてしまうとはトラウマと呼ばずしてなんだろう。
すべてをデータ化するgoogleの野望。
わたしのみる夢もデータ化されるのか。
教会に通ったことはないけど、ある風景と直面することは、教会のキリスト像の前に立つような感じ、つまり敬虔である他ない聖的なものが溢れている。たとえ卑俗にまみれた風景であっても。
ある程度年を重ねると、参照できる過去の風景の記憶が層になって積もっていくが、決してどれも混じり合わず、ひとつひとつが独自の強度をもって…でもそれらは廃墟でしかないのだ。でもその当の廃墟によってのみ、今の豊穣さが支持され許されているのかもしれない。
今日の尾崎放哉
打ちそこねた釘が首を曲げた
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