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2010.04.23
響きと怒り
激しい怒りの感情。
個人的な事情で怒りが沸き上がってきて、怒気で身体が包まれる。
普段温厚なせいか怒りの感情に火がつくとそのエネルギーは凄まじい。
まあかといって暴れたりするわけではないが、内で自炎しているだけだが。
朝めざめた瞬間から昨日の夜の怒りが沸いてきて抑えがたいものがある。
公憤や義憤といったことならかっこいいが、全くの私憤なもので。
怒りというのはどのようなものなのか。
悲しみとか悔しさの感情とかと極めて近接しているようにも思える。
怒りの反対は喜びなのだろうか。
でもエネルギー値だけで見るなら怒りを超えるくらいの喜びはない。
でも笑いのエネルギーなら怒りを超えるかもしれない。
蠅とかをビーカーに入れて、蠅にむかって本気で怒ったら、あっという間に蠅は死んでしまうらしい。それほど怒りには毒気が含まれているとのこと。まあ蠅にむかって本気で怒るのはなかなか難しいが。
怒りにも個々人の形式といったものがあるのだろうか。自分は怒りによって人を恨んだりはしない。ただ執着がなくなって縁が切れていくという感じだ。もうどうでもよくなっていくというか。
怒りに満ちているときにどうすれば柔らかく丸くなっていけるのか、それをずっと考えていた。
音楽はいい。とても。特に交響曲は。多層な構成が自分を織り込んでくれるようだった。
今日はマイケル・ナイマンのガタカをずっと聴いていた。
生きている者の言葉より、死んだ者の言葉のほうが身近に感じもした。
たとえば59歳で自殺したヴァージニア・ウルフとか。
「こんな混乱のなかでは何もできない。まして、寝ていた人がわざわざベッドから起きてまでも答えを求めようとした、何が、なぜ、何のために、といった人生の根本的な疑問を夜に向かって差し出すのは、ほとんど無意味なことにさえ思えよう。」
<ラムジー氏はある暗い朝、両腕を差し延べながら、廊下をよろめくように歩いていた。しかしラムジー夫人は、前の晩にいささか急に亡くなったので、その腕はただ差し延べられるばかりで、いつまでも空っぽのままだった。>

「宮崎駿の思考過程」雑感
宮崎駿が各シークエンスを色で表現しているところがあって驚いた。
宮崎駿の制作中の思考はつねに具体と抽象を激しく行き来していて、この振れていく回数がアイデアの筋肉を強くしていると思った。宮崎駿の思索を通過した後にキン肉マンを見ると、この世界のでたらめ性に生きる喜びさえ沸き起こってくる。でもきっと僕よりキン肉マンの方が正常なのだ。宮崎駿の言うように子どもは論理では生きていないし、世界にも論理はない。
個人的な事情で怒りが沸き上がってきて、怒気で身体が包まれる。
普段温厚なせいか怒りの感情に火がつくとそのエネルギーは凄まじい。
まあかといって暴れたりするわけではないが、内で自炎しているだけだが。
朝めざめた瞬間から昨日の夜の怒りが沸いてきて抑えがたいものがある。
公憤や義憤といったことならかっこいいが、全くの私憤なもので。
怒りというのはどのようなものなのか。
悲しみとか悔しさの感情とかと極めて近接しているようにも思える。
怒りの反対は喜びなのだろうか。
でもエネルギー値だけで見るなら怒りを超えるくらいの喜びはない。
でも笑いのエネルギーなら怒りを超えるかもしれない。
蠅とかをビーカーに入れて、蠅にむかって本気で怒ったら、あっという間に蠅は死んでしまうらしい。それほど怒りには毒気が含まれているとのこと。まあ蠅にむかって本気で怒るのはなかなか難しいが。
怒りにも個々人の形式といったものがあるのだろうか。自分は怒りによって人を恨んだりはしない。ただ執着がなくなって縁が切れていくという感じだ。もうどうでもよくなっていくというか。
怒りに満ちているときにどうすれば柔らかく丸くなっていけるのか、それをずっと考えていた。
音楽はいい。とても。特に交響曲は。多層な構成が自分を織り込んでくれるようだった。
今日はマイケル・ナイマンのガタカをずっと聴いていた。
生きている者の言葉より、死んだ者の言葉のほうが身近に感じもした。
たとえば59歳で自殺したヴァージニア・ウルフとか。
「こんな混乱のなかでは何もできない。まして、寝ていた人がわざわざベッドから起きてまでも答えを求めようとした、何が、なぜ、何のために、といった人生の根本的な疑問を夜に向かって差し出すのは、ほとんど無意味なことにさえ思えよう。」
<ラムジー氏はある暗い朝、両腕を差し延べながら、廊下をよろめくように歩いていた。しかしラムジー夫人は、前の晩にいささか急に亡くなったので、その腕はただ差し延べられるばかりで、いつまでも空っぽのままだった。>

「宮崎駿の思考過程」雑感
宮崎駿が各シークエンスを色で表現しているところがあって驚いた。
宮崎駿の制作中の思考はつねに具体と抽象を激しく行き来していて、この振れていく回数がアイデアの筋肉を強くしていると思った。宮崎駿の思索を通過した後にキン肉マンを見ると、この世界のでたらめ性に生きる喜びさえ沸き起こってくる。でもきっと僕よりキン肉マンの方が正常なのだ。宮崎駿の言うように子どもは論理では生きていないし、世界にも論理はない。
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