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2010.04.20
魚でもあり波でもある

京都でも好きな大原地区の案内看板。
苔生しを受け入れること。
ポストに新興宗教の勧誘チラシが入っていた。
入信して会社の業績があがったとか、母の認知症が治ったとか書かれてあった。
神様がいるのだとしたら、そんな便利屋みたいに使っていいのだろうか。
ぼくは子どもの頃、ある矛盾に悩んでいた。
試練は人を伸ばすという大人の言葉と試練を避けるための宗教を信じる大人。
まあもちろん人はなにかを信じて生きているわけだし、死んだほうがましだという状況が人生の大半を占めるとしても、自身の幸福や利益のために交感条件のように神様を頼り祈るというのは、ずいぶんこの世界の経済原則に沿ったご都合のいい宗教だ。
てめえの利益をうたう宗教はダサイという思考が当たり前になるといいな。
「ポニョはこうして生まれた」第2巻つづき引用
「油絵は物だった。情報じゃない」
「情報は間違う。物は刻々と変化する」
「もう一度ルネッサンスをやらなきゃいけない」
「いまはイメージボードより前の段階だ」
「魚なんだけど波」
「大丈夫かなこれ。こんな恐ろしいこと描いていいのかな」
「これはしばらく描きたくなかったイメージ」
「まだそこには行きたくない」
「四六時中考えなきゃ思いつかない」
はっきり言って、もうこの時点で映画のすべてが出ていて、宮崎駿の頭の中にすべてあるのがわかってくる。
だがしかし、それを認めないというか、決定しなくて、延々踏みとどまっていて、よりクオリティの高い物に引っ張り上げようとしているのがだんだんわかってきた。
だけどこれは周りからすれば、早く決めてくれよ、という結構いらいらする話で、こういう潤沢なスタジオシステムと権力に支えられてこそなのだなと思った。
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