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2010.02.18
内なる帝国/インランド/エンパイア
たとえばウォーホルの感動とマティスの感動は経験の質感が全然違う。優劣云々ではなくて。
じぶんがこうしたいと漠と思ってたようなことを先んじてやられていると、感動のなかにも嫉妬や悔しさも混じってくる。そしてなぜか元気が出てくる。
デイヴィッド・リンチの「インランド・エンパイア」をやっと見た。
見てしまったと言ったほうが精確だ。
見てしまったからには、それ以前の世界に戻ることは決してできない。
オウムの地下鉄サリン事件とか、アメリカの911とか起きてしまったことの決定的な、もう前に戻る事ができない世界の風景を変えてしまった出来事。インランド・エンパイアはそんな映画。
アート映画でもカルト映画でもましてやホラー映画でも即興的映画でも決してない。人類の記憶あるいは夢とでも呼びたい総合的な「ぜんたい」が写されている。どのショットも油断ならない。念写で映画を作るとこうなるだろうみたいな。でもどの映画にも似ていない。ついに映画はそこに「人間」を写すことができたのかもしれない。多分何度でも見るだろう。自分を見ているようだ。そしてそれは単なる映像ではなくて、やっぱり映画としか呼びようがない強度を確かにもっている。不気味なくらいに。不気味なものをとらえることに成功している。音楽と照明への強い確信だけがわたしをなんとか導いてくれた。おっぱいを露出させるシーンとか性交のシーンとかその性的な刺激がどこにも落ちていかない。
他の作家の比較ではフォン・トリアーに近いが、比べれば比べるほど別種のものに見えてくる。フォン・トリアーは映画全体のコントロールを決して手放してはいないけど、リンチはなにか別の原理に身をまかせている。
混沌では決してなくて、むしろ理路は整然としている。ただ回路の繋がり方がちょっとわからないだけで。でも分かる必要もないだろうし、分かったからといって、この映画をわかったことにはならない。
学生の頃つくられていた自主製作の8ミリフィルムの感触の方が近い。誰にも期待されてないけど、勝手につくられて誰からも見られることなくロッカーに眠っているような8ミリフィルム。自主製作についてあらためて考えさせられた。じぶんも映画を撮りたいと思わせた「人間」のための映画。
リンチの全作品をもう一度見直したいと思った凍れるような夜でした。
ちょっと町から外れて、街灯のすくない場所に立つだけで、星の数が倍ほど見えた。
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