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2010.02.14
歴史感覚

電車に乗っていたら、ギャルが「おやじがマジ臭くてぇよぉ~」と喋っていた。
今の自分が過去のどのような延長線上においてある特定の歴史的ポジションについている(つくことができている)のか認識するのは難しい。関ヶ原での小早川の選択といまの自分の存在がリンクすることは考えにくい。しかし太平洋戦争で負けて焦土から無一文で事業を始めて成功をおさめたり、あるいはロシア兵に追われ大陸から逃げ延びて国土に無地帰還し食うや食わずやで働いたり、戦争で夫を亡くしてじぶんの手ひとつで何人もの子どもを育てていったりした先人の歴史的な営為とあたたかいエアコンのきいている部屋やこうしてネットのできる環境にまで社会が整備された成果ははっきりとリンクして考えることが僕にはできる。決して断絶はしていない。
核家族化が進むと生ける歴史、生ける物語としての爺ちゃんや婆ちゃんの存在の凄さをなかなか日常で感得することができない。じぶんは婆ちゃんから戦時中学童の頃、疎開で朝鮮半島へ渡った話をずっと聞かされていて、そういった歴史の80年くらいの時間軸を一本のラインで想像することが少しはできる。坂の上の雲の日露戦争にしても100年くらい前の話なのである。何百年何千年も前の出来事ではない。こういった歴史感覚があればギャルも少しは親父連中を尊敬するのかもしれないが、大人が少女を買春する世界だからそんなものもずたずたに切り裂かれている。
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