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2010.02.03
あたたかい窓辺のむこう

仕事用の顔ってあるじゃないですか。仕事用の口調とか。まあそれって作っているというか演じているわけです。とくに接客業みたいなお客さん相手の場合は。安定的な仕事用のトーンを決めて演じているわけです。エレベーターガールとか典型的ですよね。ああいう姿勢とか口調はプライベートではしてないわけです(と思う )。でもなんかそれが崩れたりする場合があるわけですよ。ハプニング的な要因によって。そのトーンが持ちこたえられなくなるような出来事が起きた場合には。特に笑いが起きるような、照れ笑いでもクスクス笑いでもいいのですが。たとえばエレベーターガールが喋っている時に、誰かおならでもしたら、たぶん同じ調子で喋り続けられないと思うんです。その崩れる瞬間、別のフレームに移行する瞬間って凄いどきっとします。落差にどきっとするのでしようか。なんなんでしょうかねえ。そもそもフォーリンラブとかなんで「落ちる」という表現を使うのでしょうかねえ。どこに落ちるのでしょうか。落ちるっていい意味では使われないすよ。地獄に落ちるとか。まあ入試の多いこの時期はあんまし落ちるとか使わないほうがいいのでしょうが。
今日ある場所に服を忘れたのです。そこの受付にはいつもきちんと礼儀正しく、まさに仕事用のモードで接してくる方がいるのですけど、ぼくが恥ずかしながら服を取りに戻ったときに、そういうモードじゃなくて、別の素の笑顔で奥にしまってくれていた服を返してくれたのです。それはいつもの営業用の笑顔とは違った笑顔でした。あこの人本当はこういう笑顔を持ってるんだって思って。こういう落差には弱いですね。
やはり仕事とプライベートとでは顔のなにか筋肉の使い方が違うのだと思う。顔の筋肉の使い方が変われば、表情とか雰囲気とか全然ちがってくる。ふっと瞬時に顔が変わる。まあ顔だけではなく、全身の筋肉の使い方がちがうのだろう。家でごろごろの休日は猫のように。職場では犬のように。
また寒くなった日々。もう冬には飽いてしもうた。
風は冷たかったけど、陽光は限りなく暖かく、もう既に以前の冬ではないことがわかった。
ある家で爺ちゃんがあたたかい窓辺で、窓の向こう側のテラスにたたずむ猫とじっと目線を合わせていた。
人は死をまつまでもなく、老いてしまえば許されることもあると、ふと思った。
ぼけというのはそういう恩寵的な装置なんじゃないのかと。
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