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木であって木ではないかも



今日はすごしやすい気候でしたということをラジオで聞く。
「すごしやすい気候」は今日みたいな日のことを言うのだということを思い出す。

室内と外の差があまりないというか、外へ出る際に上着を着て無意識裡にも身をぐっと縮めて、寒さにたいして構えをとる必要がない気候。体のどこにも力を入れる必要がない。
じぶんだけかもしれないが、冬は体ぜんたいが凝っている感覚が明確にある。関節とか筋肉とか。
 
関係ないが、じぶんのいまの状態を肯定できない人は両腕をまっすぐに天にむかって伸ばすことができないということを聞いたことがある。この場合はどうにも両手を素直に天にむかって伸ばすことに心理的に抵抗が生じるらしい。この感覚って興味深い。みなさんはどうでしょうか。

 
歌を歌うということは、なにかと強烈に同期しているから気持ちがいいのではないかと思う。
それはもちろん音楽との同期ということもあるのだけど、音楽という媒介を利用してもっと大きな律動に身をまかせようとしているのではないか。

体が音楽に合わせて自然に揺れ動いてく。

この世界は波に見られるような律動やバイブレーションで満たされている。

光もひとつの振動なのだろうか。

光に心震えるときは、光のつぶだちの振動たちを見ているのだろうか。

セックスとかいびきとかしゃっくりも貧乏ゆすりも吃音も、この世界からの放たれるリズムを身体が受容しているのではないか。(北野武の首をカクッとする動きとかもきっとそう)

宇宙全体に響いているおおきなゆりかごのリズムに身をまかせよと、たしか埴谷雄高が語っていたような。

合気道って、こういうことを体認しようとしている武道なのではと思う。

声とか音は振動でもある。スピーカーが揺れるように。
なにかが届くためには、こういった揺れが必要なのだ。
加藤被告は「揺れる」ということをきっと誰からも何からも受けなかったのだろうか。

なにかに感動したり揺さぶられたりすることは、考えている以上に相当重要な体験なのだ。


a cappella


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