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ujigamisama


前に住んでいたところはすぐ近くに神社があったため初詣とか関係なくよく訪れていた。
行き詰まったり、悩んだり、立ちすくんだりした時に神社に行って、ただぼーとしていた。
結界が張られているのだろう、神域にはいれば不思議とざわついていた心が鎮まるようだった。
人を誰も見かけないところもよかった。鳥の声しか聞こえなかった。

じぶんは神社に行ってなにかを願ったりすることはない。
以前、ある神社に行ったとき額に「神恩感謝」という言葉が刻まれていて、はっとした。
神社というのは日々の感謝を捧げる場所で、なにかを願う場所ではないのだなと。

いまでは神社すら商業化されていてとても残念だ。
きつい表現だが、神社でわれ先に列をなしている人と宝くじ売り場で並ぶ人が同じように見えてしまう。商売繁盛や合格祈願、縁結びなどを売り物に神様を酷使していいのか疑問だ。
ちなみに伊勢神宮では「私幣禁断」といってわたくし事を祈ることが許されていない歴史があったが、それは伊勢神宮に限らず、重要な考え方だと思う。

たしかに人間は弱い。自分も嫌になるくらい弱い。
自分も心が折れそうなときに神社に行きたいと思うわけだから、なにかをもらいに行っているし、神さまにどうにかしてくれと願わざるを得ないほどの苦痛といったものもある。でもやっぱり他力本願では駄目で、この世界ではあくまで人間が主役というか、神様でもペンひとつ動かせないのだから、じぶんが主体となって事態を打開しないといけないのだと、枝に結ばれている皆のさまざまな願いを見て自戒を込めて、そう思った。

神様はなにもしれくれないというのが、じぶんの神様観。でも話は聞いてくれている。そういう場が神社とか神棚なのかなと。そこには宗教組織とか、ましてやお金とか必要のない個と世界との1:1の向き合いだと思う。

歩いていたら、ある言葉がボードに掲げられていた。
「元旦を迎える この命のあることの不思議」


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