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2009.12.30
内省と遡行2

なぜなら人が覚えていない事柄も同じくらい重要だからである。ヴァージニア・ウルフ
部屋の掃除をする。2部屋あるのだけど、物(ほとんど本だけど)が多くてなかなか片付かない。
でもこういう単純作業は妙に没頭するところがあって、何時間でもできる。
やっと6割くらい終わった感じ。すっきりするとやはり気持ちがいいな。
でもこれは脳のつくりなのか、シンプルにすることができない。シンプルだとかえって落ち着かない。こぎれいでありつつ、雑多な感じが残る方が落ち着くのだった。
物を整理すると、部屋を「歩く」という感じが出てくる。
物がさまざまに置いてあると、それらをまたいだり避けたりする意識が働くため、部屋を「歩く」という感覚が生じない。
でもこれだけきれいになっても、数週間後にはまた元に戻ってたりする。最初に床に置くひとつの物から増殖していくのだろうか。そしてまた「歩く」ことができなくなる。
日常の日々は、存在よりも非存在の方をはるかに多く含んでいる。ヴァージニア・ウルフ
今年の手帳を開くと、どこそこに行ったということが日付に出来事として記されている。それはすぐに思い出せる大きな出来事だ。それはそれでいい。まあでも忘れ去られていく、ちいさな出来事ってどのようなものなのか、そういったことをなるべくこのブログに綴ってみたいと思っていた。大気の変化とか、ちいさな決意だとかモチベーションだとか、軽い失望や驚き、感動、等々。写真もそうだろう。それはなにかがシャッターを押させたのだ。当たり前だが、シャッターを押す時と押さない時というのがあるわけで、押す時というのはなにか世界の微細なふるえとか、いきづかいとかを感じた時なのだろう。
わたしの敬愛する画家の古谷利裕さんの近著『人はとつぜん小説家になる』のなかで、わたしはただ小説の良い読者でありたいだけだ、ということが書かれてあって、じぶんはふとこの世界の出来事、現象のよき体験者でありたいのだなあということを思った。そういったことをこのブログで淡々と綴っていると事後的に思い、それを今年一年実践して、また多くの方に読んでいただき、コメントや拍手などもいただいて励まされていくうちに、一方的な独白も読んでくれている方たちへの贈与でありたいと大げさながら漠然と思うようになりました。これもブログを今年本格的に書き始めて得た大きな実感です。
今年見た映画ではゴダールや黒沢清、ヴィクトル・エリセの諸作品を見直し、新たに衝撃を受けたことは大きな体験となった。自分の感受性の根幹に映画があることを確認したことは大きい。過去観た優れた映画はもう一度なんとかして観る必要があることを痛感した。評判の高いイーストウッドの「グラントリノ」は、80歳近いご老体でその演出の冴えっぷりには驚愕するしかなかったが、説話的に受け入れ難いところがいくつかあった。いまの時代、一方的に善悪を分けること、悪そのものを描く事の困難、そして死によって裁きが完了するという点など地雷を踏んだ感がした。シビレるほどかっこいいけど。硫黄島より後退している。ぼくはずっとギャングたちが気になって仕方がなかった。それでも私にとってイーストウッドは神ですが。
先に紹介した古谷さんの本の冒頭で「わたしのもとには何もありません」という言葉があって、なにかすごい清々しさを感じ、泣きそうになるくらい心が震えた。
つづく
掃除もつづく
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