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2009.12.19
プールは泳ぐためだけにあらず

学校にあるプールを見ていた。冬には使われない。ヘドロのような藻が繁殖して、濃い緑に染まっている。
物というものは人との交感においてその存在すべき場所をえるような気がする。使われていないプールは崩壊へとすすみ、夏が近づくとまた生気を取り戻す。人が住まなくなった家なんかも、驚くほどあっという間に朽ちていく。人の気というものが物になんらかの活気を与えているということか。ある気功師の人がいて、興味深かったのは人の施術だけでなくて、壊れたテレビとかCDコンポとかも治そうとするのだった。実際の効果の真偽は定かではないが。その人も物も同様に捉えている世界観がおもしろい。
ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第2部 時はゆく
こうして家は空っぽになり、ドアには鍵がかけられ、敷物類は巻き上げられたので、巨大な軍勢の前哨とも言うべき迷い風たちは、何の遠慮もなく侵入し、むき出しの板壁をこすったり、あちこちとかじったり煽いだりしたが、寝室にも客間にもそれに強く抵抗するものはもはやなく、ただ破れかけの壁紙が揺れ、床板がきしみ、装飾のないテーブルの脚や、すでにほこりを被って曇ったりひび割れたりしたシチュー鍋や陶器類が目につくばかり。 (中略)打ち捨てられた姿見も、以前は人の顔をはっきりと映し、一つの世界をそこにすくい取ってみせていたものだ―――その世界の中で、人が振り向き、手がひらめくように現われ、ドアが開き、子どもたちが騒がしくなだれ込んでは出て行ったのだ。それが今では、来る日も来る日も単調に差し込む光を映すばかりで、その光は水に映る花影のような澄みきった像を反対側の壁に落としていた。
プール。水泳は得意ではなかったが、潜った時の世界の音が遮断されてくぐもる感じの水の中に深く魅せられていた。プールの底にお腹がくっつくくらいに潜って、息が続くまでその世界を楽しんでいた。それはなにかからの解放であったのかもしれない。頭を出すと再び騒々しいみなの声が聞こえてきた。
いつの、なんの記憶かはわからないが、水のないプールを革靴で歩いていた。本来ならちょうど肩くらいまで水があるはずの空っぽのプールをコツンコツンと音を立てて歩いていた。そのときのなんとも言えない息苦しさが記憶に生々しく残っている。
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