| Home |
2009.12.14
存在することの重みに耐えかねて

以前にいただいた柿をうっかり食い忘れ、腐りけり。
トマトではないよ。
先日大分シネマ5でビクトル・エリセの映画「エル・スール」を10年ぶりくらいに観直した。
こんなに途方もなく重い映画だったのかと思った。まあじぶんがこの映画の重さに気づけるようになったということだが、その重みを重みのままでありつつ、しかも深いところから生きることの歓びを描いていた。
主人公の少女が母親を嫌悪してベッドの下に長いこと隠れている。慌てる様子の母親を感じながら少女はしてやったりの顔をする。しかしその上の天井裏の部屋で、すべてを感じとっている父親が下の階の娘に向けて床を杖でコツコツ叩いている。。。書いていて空しくなった。こんな文章にしたところで、あの場面のすばらしさはとても伝えられない。もひとつ、挙げると続く、少女が高校生くらいの女性に変わる時間経過をオーバーラップを使ってひとつのシーンのように表現しているのだけど、ついで脇にいる子犬も大型犬(相当でかい)へと成長して躍動しているところが、ゾクッとするほどすばらしかった。犬もいれたアイデアが凄い。
いくつか言葉を失ってしまうようなシーンがあって、映画館を出た後も頭の中を離れず、他に用事があったのだけど、それも忘れて、なかなか映画館の外の明るい世界になじめず、しばらく呆然としてさまよっていた。時間が経つほどに、この映画のいくつかのシーンが強く重く思い出された。
昔、理科で地上における気圧は山などに比べてもの凄く重いものがあるみたいなことを習った。ぼくはその時、そういった重荷を背負いながら人は生きているのだと、漠然と存在論的に了解してしまった。
それは存在することの苦しさというのか、悲しさといってもいいもの。本質的な、逃げようもないものとして。重力、と言い換えてもいい。なんらかの理由のある悲しさより、ふとした時に込みあげる出所のないような悲しさとかくるしみに耽ったりすることもあるけど、それらは生きることの肯定やよろこびとなにかふかく繋がっているような気がしてならないのだ。
「人生を凌駕する、人生を越える映画が存在する」ビクトル・エリセ
| Home |