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実家に帰ると2階には、じいちゃんのモノクロの遺影がある。
もう30年以上、変わらない見上げられる位置に掲げられている。

子どもの頃は、2階のこの部屋のどこの位置に立ってもじいちゃんの遺影の視線とぶつかるものだから怖かった。
じいちゃんは親父が中学生の時に死んでいるから、自分は会ったことはないのだけど、いろんな人におまえはじいちゃんに似ていると小さい頃から言われ続けてきたから、並々成らぬ親近感がある。

でもそれは周囲の若い時に死んだじいちゃんへの失意をぼくの存在において生まれ変わりとして認識することで回復させようとしているのかもしれない。絵を描いたり、文章を書いたりして表彰されたりしたら、おまえはじいちゃんの血をついでいるとか言われた。そんなんだから洗脳されたみたいで、遺影を見るとじぶんの面影を探してしまったりするではないか。


もう10年近く使い続けているお気に入りの時計がある。10年以上愛用しているといっても高価なものではないけど、異様に気に入っている。もう何度も壊れていて、そのたびに修理に出している。トランスコンチネンツのエキストラフラットというやつで多分もう売ってないだろう。その名のとおりとても薄くて、この薄さが腕に過剰に主張することなく巻きつかれ、秒針や文字盤も全部艶の抑えられたシルバーで静謐なデザインに仕上げられている。
あるとき、この時計をして実家に帰ったら親父から「じいちゃんもそれとそっくりな時計をしてたばぁい」と言われた。






watakushi


一人撮りする気まずさはさておき、これがそのいつも愛用している時計。


じいちゃんも似たような時計をしてたと言われたときは、怖いというより逆にうれしかったのだった。
生きている者より死んでいる者のほうが親密で理解者なのであった。歌の歌詞ではないが、お墓にはじいちゃんはいない気がする。すぐそばにいるような気がする。われわれは死んだ者にたいして多くの影響を受ける。死者こそが多くを語り、生々しいまでの視線を投げかけている。高校の頃亡くなった同級生とじいちゃんに語りかけていることがある。迷ったときとか、一人旅しているときとか。
じぶんがこの世界から去って死者となったときに、生者とどのように関わりをもつのだろうかとふと考える。たじろぐ生者に一歩前へ押し出す勇気を与えたり、悪い方向へ進むことを制御したりできるのだろうか。それはきっと自分がどのように生きたのかということとダイレクトに関わってくるのだろう。


昔の映画、50年前とかのやつを見ると、監督や役者、カメラマンからすべてもう存命していない場合があるのだけど、それでも映画のなかで鮮やかに生きて演じていているのを見ると、素朴に不思議な感情が起こる。まだ誰もいまだかつて死んでいないんじゃないのか。荒川修作はなぜ「死なない」と言うのか。写真より私が古くなると言う椎名林檎。老いるとは言わずに。自分が消えても、自分のこの写真があることの凄さ。ここにはいったい何が写っているのか。写真のじいちゃんはよく見るとモナリザのように微かに笑みをたたえているように見える。きっと僕が死んだ後も、地球上に人間がだれもいなくなっても微笑している。


寒いあさは、コンクリートの固さを感じてしまう。歩く足のうらから、その固さを感じる。夏には意識しなかった地の感触。午後から雨が降る。大気に湿り気が宿り、寒さを緩和させるのも束の間、日が落ちると寒さが戻ってくる。またコンクリートの固さが戻ってきてしまう。





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