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2009.12.05
古事記

日本のいろんな史蹟や自然崇拝の祈りの場所となっている山河などを旅すると、よくよく見ると、あれって男性自身とか女性自身なんじゃないのかと思えるようなものに出会ったりする。
その時には気づかなかったけど、あとで写真で見返したりすると、ありゃあらゃって。
まあ、男性のをかたどったようなものはすぐに分かるけど、女性のはわかりづらい。
男性のはほんとモザイクかけないとやばいよ、これっていうような超リアルな岩とかにしめ縄が結ばれていたりして、まだ結ばれていないカップルなんかが見たときはかなり気まずいだろう。
生殖器に偶然に似た自然の造形に「豊穣」のしるしを見とり、崇められる対象となっているのだと思う。
稲作の出来不出来がそのままダイレクトに生存に関わってくるような昔の世界では「豊穣」を願う祈りは相当なものであったにちがいないし、また子孫の繁栄というのも現代よりはるかに希求されただろうことは容易に想像できる。
古事記を読むと、これはなにを指しているのだろうと思うような単語が出たりして、調べるとたいてい陰部とかを指していたり、地域によっては今でも使われているところもあるだろう。というか、古事記はそういう種の話で満ちていて、過激極まりなく、おもしろい。神聖な神々の話ではあるが、糞をひり散らしたとか、へどから成った神様とか尿から成った神様とか平気でがんがん登場する。陰上と書いて「ほと」と読むそれは女性のそれでかなり頻繁に出てくる単語。ほとに木が突き刺さって死んだとか、ほとが燃えたとか、ほとが見えたとか枚挙にいとまがない。そういう、おおらかさというのかまったり感が古事記には通底していて、その世界観と日本各地に見られる生殖器の似姿への祈りの世界観とが重なるのだった。
笑いや羞恥の下ネタになってしまえばそれまでだけど、ここには世界と人とのかなりギリギリの切迫したキツい関係から立ち上がる真逆の反転したおおらかさを自分は見てしまう。
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