fc2ブログ
2009.11.17 祝福
syukufuku


いま生きているという状態はどういうものなのだろうか。

Macのスクリーンセーバーで自分の撮った写真がスライドされるようにセットしているのだけど、信じがたいくらい鮮明なディスプレイの再現力に驚くとともに自身の撮った写真に圧倒される。もちろん秀逸とかの意味ではなくて、その写真に付随している感情というか思いというか気分というか、そういったものが同時に召還、喚起され、いちいちその濃密な自分のそれに圧倒されるのだった。
たとえば、自分にとってなにかを撮るということは、すこしだけ非日常的な行為だ。できるだけそれを空気を吸うようにやりたいと思っているけど、起動スイッチを押す作業やフレーミングの作業といったものがそれを邪魔する。そしてそれを撮ろうと思ったのにはなにかしらきっかけがあるはずで、驚きだったり、感動だったり。それはなにかに気づいたということでもある。そういった微細な感情や思いといったものが、ありありと再現されてしまうことに圧倒される。それははっきりと言葉に表せるものもあるけど、言葉にならないできない、分節化されない思いや気分といったものもあって、強引にいえば漠とした疲労感だったり、ふとしたささやかな喜びだったり、タバコを吸う人が休憩室で壁に向かって無の状態でやすらっていたり、そういった漠然としたものさえ空隙のような自分にだけわかるものが自分の写真には付随していて、それが一枚一枚スライドされるたびに喚起されて圧倒される。それは最近撮った写真であればあるほどそれは強烈で微細な気分まで忘れていない。そういった空隙に気づいて、シャッターを押す。押したい。それを真理と呼ぶ。

いま生きているということの状態というかベースにこういった、なんか気分というか感情というものがつねに流れているのだろう。日常のなかの地となっている、こういうのをうまくつかまえたいと思っている。写真でも言葉でも。


タバコを吸っていた頃のこと。会社の喫煙室でぼーと吸う。知っている人が来ても、なるべく喋りたくなくて、気づかないふりしてぼーとしてた。壁の方を向いて。喋ればこの休憩時間は台無しだった。お気に入りの人だけ喋った。ただ神経をゆるめたくて、知っている人のいない階の喫煙室までわざわざ足を運んだ。でもみんな同じことを考えていて、違う階でもばったりはちあわせて気まずかった。あのときに流れていた時間。多くのことを噛みしめていた。ニコチンで茶化けた壁にむかって。漠としてはい、カウントもできない、なにか大きなものが偉大とさえ呼んでもいい時間が流れていたにちがいない。そういったものこそが、いまの自分の骨や肉、精神となっている。そのほとんどが忘れられたことこそ、真にわたしを下支えしている。あの時間をいまでは指さすことはできない。


Secret

TrackBackURL
→http://1000plateaux.blog40.fc2.com/tb.php/295-b8572cd8