fc2ブログ
0:00pm


「ファンタジーは現実からの逃避ではなく、現実をあらたに捉え直し到達するもの」

エンデの語る映像がNHKで流れている。どの言葉もおどろくほどの啓蒙に富んでいる。



きのうの記事に自分が書いたことばを反芻している。


自分が欲しいものは自分で勝ちとっていくねん。誰が勝ちとってくれるんねん。


この言葉が吐かれた映像は凄まじかった。これもまたNHKだが、体が自由に動かせない病に苦しむ男性が床に伏しているというか、放置されているような状態で彼は目だけをギロギロさせて周りを見ている。その彼に対して同じ病をもつ先輩がその部屋にやって来て吠える。床に伏している彼はうう…という言葉にならない言葉を漏らし、目をギロギロさせて反応している。


こういうシチュエーションで使われた言葉なのだった。


ぼくは彼らを見習って五体満足だから頑張らなければならないということを書きたいわけではない。各々の与えられた条件を比較することになんの意味もないだろう。自分がアフリカで生まれれば、自分が江戸時代に生まれれば、いまとは違う生きることの条件が課せられている。



ただ単純に自分の生の条件がなんであれ、自分が本当に欲しいものは(あるかどうか)、自分のみが勝ちとるための努力(ここでもっともピンとくる言葉)をしなければならないし、それは他者が代わることのできないもので、ここに立ち上がるものこそが「おれは存在した」と呼ぶに値するものなのではないか。

唐突だけど、チェ・ゲバラとかフーコーとか、自分の憧れる人間たちはみな、そういう生を〈選択した〉のだと思う。みずからの主体で。そうとしかあり得ない強度で。自分の半端さが恥ずかしい。



自分は一時期流行った〈自分探し〉というものにずっと懐疑的なのは、自分にフィットするなにかがすでに用意されたなにかがこの世界のどこかにあって、そのどこかを自分と都合よく混同し、彷徨い求める怠惰さ、甘えが嫌だったのだ。自分の足元を掘れよ。遠くに行かずに。自分に言い聞かせる。



Secret

TrackBackURL
→http://1000plateaux.blog40.fc2.com/tb.php/275-c06f4796