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2009.10.25
はさ掛けのある風景

稲刈りが各所で行われ、この季節のふたたび大地が剥きだしになる荒涼たる風景が嫌いではない。祭りのあとのような虚無感と達成感の充実ぶりがしずかに残響している。
いまはほとんどが機械で稲刈りが行われるため、はさ掛けと呼ばれる、刈られた稲を田んぼで干している光景を見ることが珍しくなってしまった。機械を通すと、稲は粉砕されてしまう。粉砕されれば、その周辺にある稲わらの文化も消えてしまう。編み笠、わら草履、米俵、しめ縄、土壁、納豆などなど。稲わらが減って、ユニクロが増えた。
はさ掛けが減ったのは、儲からないからに他ならない。はさ掛けされた米が店頭に並ぶことはまずないだろう。食べたことがあるが自然乾燥されたお米はめちゃくちゃ旨い。が、手間がかかるから店頭に出せば相当な金額にならないと利益がとれない。だからはさ掛けされたお米は、自家消費するか親戚や友人に配るかで終わってしまうだろう。

以前、米作りをした際に余った稲わらで納豆をつくったことがあった。大豆を蒸して稲わらに包み、発砲スチロールの箱に湯たんぽを入れて2日間ほど寝かせると、糸を引いた納豆ができていて感動した。稲わらの中に納豆菌がいるのだろう。大豆が柔らかくなりすぎて歯ごたえがいまいちだったが、味は旨かった。スーパーで買えば、たれ付きで100円くらいだろうけど、そんな経済原則とは別に大切な時間がこの稲わら納豆のなかに流れているのを感じた。
米作りが中学とかの教育カリキュラムに入ればいいのにと思う。社会、理科、体育、道徳…さまざまな要素が机上ではない体験として習得できるから。

これはお米の苗を雨の降るなか準備しているところ。2007年5月。Author本人。
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