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2009.10.23
上海から来た女とキャンペンガール・ホッパーと哀しみ

九州の地場産業の先端技術を集めたイベント展示会場へ。社長と初見の留学生の中国の女性と。その女性、王さんは大学院の博士課程在学中。イェール大学がどうとかとか話していたから多分おそろしく頭がいいのだろうが、気持ちのいいくらい何かが抜けていて会話がまったく噛み合わないのだが不思議と不快な気分にはならないのだった。日本語はたどたどしいが、語られている内容は日本人の女性が話すことと変わりがないことがなにか不思議だった。でも笑うところが少しズレているような気がしたがそれも許容範囲だった。特急電車に乗っている間、喋ったり、本を読んだり。そうかと思えば、ipodで独り麻雀を楽しんでにやにやしていたりと、暇を潰すためにありとあらゆることをしていた。かと思えば、唐突に話しかけてきたり、笑ったり。目まぐるしかった。自分も「中国語が喋れるんですか?」と馬鹿げた質問をしてしまった。どんな本を読んでいるのか気になって、背表紙を見たら、中国語で「閲人有術」と書かれてあった。おそらく推測するにビジネスとかパーティーなんかにおける人心掌握術について書かれた本なのだろう。王さんがその本を読むたびに自分に話しかけてくるので、自分はそこに書かれてあることを試されているのではとさえ思った。
イベント展示会場は人でごったがえしていた。新エネルギーに関する先端技術を集めた展示会で、いろんな新商品が展示紹介されていた。イベントコンパニオンという職種の女性を初めて見た。同じ人間かと思われるほど、腰がくびれていて細かった。コスチュームの露出度が場にふさわしくなく引いてしまうほど高く、男どもが群がっていた。性衝動と購買衝動はシンクロするのだろうか。ほとんど色仕掛けに近かった。社長はけつがちいせえから駄目だ、と言い放って、その場を去った。
展示をまわるたびに、おそろしく無感動な自分に気づいた。自然の造作には草木でも感動するのに、人為的なものはそれが最高の技術を集めたものであれ、まったく心が動かなくて、自分で頭がおかしくなったのではないのかと思うほど興味を示せなかった。呆然としてしまって、社長から怒られたほどだった。あの中国人を見習えと王さんを指さした。王さんはひとつひとつのブースを尋ねて歩き、説明を聞き、熱心に質問していた。中国人には勝てんよ、と社長が呟いた。あるキャンペンガールがぼくをじっと見ていた。おそらく自分はあまりに呆然としてしまって半透明なくらい生気を失っていたのかもしれない。そういうふうに自分は見えていたに違いない。目が合うと会釈をされた。自分はきっと疲れているのだろう。
お昼休み。近場で3人で昼食をとる。自分はカレー、社長はオムライス、王さんはナポリタン。王さんはパスタというからカルボナーラが出るかと思ったら、ナポリタンだったと文句を言っていた。たしかにそのナポリタンはパサパサしていて、食欲をそそりそうになかった。王さんは大量に残した。その安食堂で、ひとりポツンとキャンペンガールが、コスチュームの上にジャンパーを着込んでめしを食っていた。疲れた表情をしていた。さきほどのふいりまいていた笑顔はなかった。エドワード・ホッパーの絵に出てくる女性を思いだした。「生きることの哀しみ」という言葉も浮かんできた。悲しみという字ではなく、哀しみという字。生きることに付随する根元的なもの。虚無とかニヒリズム、虚しさ。理由のない。深淵。あるいは労働ということについて。胸が苦しくなった。
王さんはよく喋った。いつのまにか僕の人生相談の相手になっていた。すでに人心を掌握されていたのかもしれない。今度、上海に3人で行こうという話にまで発展していた。中国人には勝てないと僕も思った。
明日も仕事なのだし、熱い風呂に入って眠ろう。
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