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2009.10.13
たちあがる 世界の にほひ

チャリンコ通勤で15分くらいのところに会社はある。
けっこうスピードを出してこいで行く。
朝のまだ汚れていない清浄な空気、やわらかい朝日、ピリッとした冷気が、ある。
キンモクセイが匂い立っていた。
スピードを出して自転車を走らせると、その匂いの源がどこかわからないまま、過ぎ去ってしまう。そうしているうちに、またどこかでキンモクセイの匂いが香ってくる。
キンモクセイの樹があちこちで植えられていることがわかる。
連続する匂い、間を挟みながら、その濃密な生の匂いをかいでいるうちに、こんな香りで世界が満たされている今に高揚してしまう。
日中になって光が強くなると、芳香はより強さを増すようだ。
強さを増すことで、香ってくる範囲も広がっていくようで、香りのないところを見つけるのが難しいほど。香水を人の熱い動脈の流れているところにつけるのと同じ原理かな。
キンモクセイの香りの記憶は小学生くらいからあるのではないか。
校庭の、あの場所から。
(自分は匂いの感性が人一倍強いというか、嗅覚が人並み以上だと思う。爆睡している時にコンセントの焦げた匂いに気付いて火事を食い止めたことも。他人の香水なんかも苦手で、瞬間的なものならいいけど、ずっと匂ってくると頭がくらくらして気分が悪くなってしまう。石鹸の香りが一番落ち着く。)
他人の家に行くと、その家のにおいってある。
でもマンションやアパートだとそれが希薄で、一軒家だと染み込んでいるのか、それをはっきりと感じる。歴史と匂いが同一視(同一臭?)される。自分の実家の匂いとかとても心の芯から落ち着くのだった。
子供の頃は変な話、自分の使っていたタオルケットの匂いが好きで、洗濯されるのが嫌だった。風呂を嫌がる猫みたいだ。
匂いへの執着は今でも強い。
中学生が自転車で自分の横を通り過ぎた時、その人の家の匂いがして、それはとてもとても懐かしい匂いで、何十年ぶりかの匂いであることはわかるけど、なんのどこのにおいかは分からなかった。起源へと遡行することはできないけど、懐かしいという記憶の古層をつつくものであることは明確にわかった。
夜になってもキンモクセイの匂いはやむことはなかった。
闇夜でますますその木立が見えなくても、どこからか香ってきた。
そんな夜が悦ばしき。
もう数日も経てば忘れてしまうこんな夜でも、悦ばしき。
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