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2009.10.10
それは「人間」と呼ばれる

NHKでアマゾンの奥地に暮らすヤノマミという部族のドキュメンタリーを見る。
乳房や下半身やらが普通に露出されていているけど、放送コードには引っかからないのは、なぜだろう。
日本人あるいは西洋人が全裸でこの中にいたら、おそらくそれは放送されないだろうし、そこだけモザイクでもかけるのだろうか。裸の露出だけでなくて(ついでに?)、解体された動物の臓物や血なども出てくる。
日本にある屠畜と呼ばれる現場は放送されることはないけど。
ブードゥー教の呪いは、その文化圏に生きていない人には効かないことを思い出す。
その呪いが通用する同じ神話(物語)を共有していないからだ。
ヤノマミには50を越える雨の名前がある。アルマジロの雨、蝶の雨…。
ヤノマミは4、5才になるまで名前がつかない。
ヤノマミは産んだ赤子を育てるか精霊にするか、産んだ母親が決める。母親とは11才とか14才の少女。
自分の産んだ子供を精霊にした少女は産後の状態が悪く、腹痛に苦しんでいる。
その父親が苦しんでいる娘に語りかける神話のような物語。
「森は大きい 歩けないほど大きい」
狩りのうまい男だけが男と認められるシンプルな世界。
死んだ男はシロアリに生まれ変わる。
生きている生活圏の中に神話や物語が浸透している。それを皆が共有している。
それは日本に生きている自分には共有しがたいことだけど、
この同じ地球でいまもその部族は狩りをしてその神話を生きていることを思うと、
不思議さを越えて、この世界を讃えたくなる。
ヤノマミは「人間」という意味。
自身の集合体を「人間」と呼称する感覚のひろがりは凄いというかこれもまた神話的だ。
ひまわり組とか、らいおん組とか、川口組とかはあくまで他の人間との区別のために呼称されるものだが、自身を「人間」と呼ぶことは、もっと俯瞰した位置からの区別の仕方で、宇宙とか太陽とか樹木とか蟻とか蝶とかがそれと並置されることになる。
文明の進歩といったものが、いかに「人間」内で完結されているか、これで気づくことができる。
自己紹介する時に「人間です」と言ったら笑われるだろうけど、でも嘘ではないわけで、この自己言及の不気味さは意外に自分たちの依っている基盤の不確かさを不意に衝くのかもしれない。
日本にいながらヤノマミのような言葉が綴れたらと夢想する。
今日、買った本。
内田樹『死と身体』
ドゥルーズ『ニーチェ』
岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』
新潮社の季刊誌「考える人」No.30
本は図書館で借りることが多いけど、やっぱ買って放置したり熟読したりしなきゃ、書かれてあることの固まりをつかめないような気がする。自分は食費を削ってでも本を買いたいと思うような観念的な人間で、それはもう高校くらいから変わらない自分の精神構造。

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