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taifuuuuuu


朝、玄関を出ると風が強く吹いていた。
雨は降っていないのだけど風が異様に強いというこの感じが、
台風が過ぎた後の気象の特徴だったことを思い出す。
土手の斜面に茂った雑草が強風で煽られ渦を巻いていた。

「鏡」という映画のワンシーンを思い出した。
タルコフスキーはこういうところを見逃さなかったのだな。
いま、彼の作品を見直すと偉大なるエコ映画というか、
地球視線での映画を目指していた特異性に改めて驚かされる。
風、水、火、土、草、樹、地球、宇宙、犬、愛。

台風が過ぎて、自分(人間)は台風についてなにをどのように知っているのかという問いに目覚める。
「台風」と仮に呼ばれている昨日のあれは何だったのか。
気象学の体系でそれを説明はできても、それは無限にある認識の仕方のひとつに過ぎず、その意味では自分にとって古代人が台風を神様の祟りだと認識したひとつの仕方と大差ない。

われわれはそれを「台風」と呼ぶことで、通過していくあの大風と大雨の一連の塊を了解したことにする。
仮に「台風」と呼ばれてしまう前の状態に踏みとどまることは、文字通り踏ん張る力がいる。

台風と呼んでしまう前に、自分はその状態を描写したいと思う。
そこには台風ならざる台風の足跡を発見することになるだろう。
タルコフスキーはまさに、そんな映画作家だった。

優れた小説や音楽、映画や絵画といったものは名付けられてしまう前か後の世界についてのものなのだ。
なにか言葉を多く語ってしまう作品より、絶句や沈黙してしまわざるをえない作品。
だから、映画や絵画について、「これは~を意味している」なんて語ることはなんの意味もないどころか冒涜なのである。

われわれの世界は、そもそも名付けることが難しいものとの遭遇ばかりで満ちている。
死はその代表格。他人の死も自分の死もわからない。
死と呼ばれる前の状態に踏みとどまれ。

この前、市内の盲学校に行った時のこと。
目の見えない少女がピアノの前に座っていた。
顔を左右に振りながら、なにを弾こうか考えているようだった。
自分は教室の外からその様子を見ていたら、唐突に激しい身振りでアンジェラ・アキの曲を弾き始めて、動けなくなるほど痺れて感動してしまった。
そこには巧拙とかアンジェラ・アキとかとは全く関係のない唯一無二の音楽というものが、突如立ち上がって、その現場に立ち合ってしまって、ひとり感動している男がいて、そしてそれを知らない女生徒がいる。

この全体こそが世界と仮に呼ばれる状態のすべてなのであった。



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