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nobana01


街を歩いていたら、えっ?こんなところで?というところで
蜘蛛の巣が顔にかかった。
街のビルディングの間での出来事だったので、一瞬なんのことかわからなかった。

世界はなにによって支えられているのであろうか。

「魁!!男塾」という漫画があって、僕が小学校の頃熱中して読んでいた。
いま、冷静に振り返って考えるとこの作品の荒唐無稽さに感動さえ覚える。
たとえば、指3本で攻撃する男がいて、でも実は指1本を使っての攻撃の方が強かったりとか、死んだ人間が平然と生き返ったりとか、人物表現のスケール(身長)が大きすぎたり、枚挙にいとまがない。

でもそんなことは突っ込みはいれながらも、漫画を熱中して読むのに邪魔にはならなかった。
つまり、作品のリアリティとしては充分成立してたわけだ。
作品のリアリティが成立するためには、論理的な整合性など不要なのがこれでよくわかる。

敷衍していま、ここで生きているこの世界について思考してみると、
けっして論理的であることの整合性がわれわれの生を支えているわけではない。
昨日の自分と今日の自分が同じである保証などどこにもないし、
歩いているだけで、暴漢に襲われ死んでしまうかもしれないし、
空にUFOが飛んでいるのを見るかもしれないし、
日本という国が突然消えてしまうかもしれない。
(敗戦時の8月15日など、そういう日であったにちがいない)
別に世界は論理的整合性などに依拠して存在していないどころか、
凶暴なまでの荒唐無稽さと矛盾に満ちている。

法律とか制度とか、学校とか会社とかって、
そういう世界の荒唐無稽さに対して、なんとか整合性を与えようとする人間の
涙ぐましい営為なのではなかろうか。

蜘蛛の巣は、どこにでも存在するのだし、どこにあってもいい。
こういう世界の受け入れ方。
世界、万歳!!


そういう意味で「魁!!男塾」の世界とそう大差はない世界にわれわれは生きている。


(こういう話って、なぜ学校でやらないのだろう。教師力によるのだろうが、役に立たないことと不要であることは別なんだけど。正解とか不正解とはまったく別の次元の話をもっと、もっと。)



さらに論をすすめたい。
宅間守という、身の毛もよだつ悪に悪を重ねた凶悪犯がいた。
彼はたしか、上流階級の人間に世の不条理を味あわせたいと語っていた。
べつに彼を擁護するつもりなどないが、お金や地位に守られた人間は
世界の荒唐無稽さから守られている(ような気がする)。
ホームレス生活を送っている人は、明日の天気や寒さなどからダイレクトに
影響を受けている。「家」というのは気象という荒唐無稽さからわれわれを
守っているともいえよう。
宅間守の襲う対象は、生活レベルの高い人間でなければならなかったと話す。
世界の荒唐無稽さに翻弄され続けられた(と思いこんでしまった)宅間の呪詛の根底に、ここで僕が語った世界観を極限にネガティヴにとらえたものと同じものがある。



***
タワレコに行ったら、ハンバートハンバートがタワレコ限定発売とかで特集されていた。
佐野遊穂さんのやさしい澄んだ声が聴きたくなって、アルバムを思わず買った。


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