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2009.09.22
しるし

昨日記事にした川上未映子の『ヘヴン』という小説には、剛毛でひげがうっすら生え、風呂に入らず服も靴もきれいにしないコジマという少女が登場する。自分が読んでいてもっとも共感できた人物。真似はできないけど。
コジマのことを考えていて僕は大学の頃、ひげは生えていなかったけど実際に風呂に入らない女性が友人にいたことを思い出した。
彼女は確かに風呂のないアパートに下宿していて、貧しかったのだけど、銭湯に行けない金銭的な理由で風呂に入っていない感じではなかった。
それは明らかに強い意志でもってなされているというのがヒシヒシと伝わっていた。
彼女の頭は油でてかり、ふけだらけで、服の襟は汚れ、皮膚はガサガサで近くに行くと酸っぱい匂いがした(ああ!まったくコジマと同じ)。目に憂いというか気になる影があった。みんなが笑っていても彼女だけ目だけ笑ってなかった。
そんな彼女が自分は気になって、みんなから距離を置かれている感じだったけど、自分はよく話しかけていた。だいぶ親しくなって、思い切ってなんでお風呂に入らないのかと聞いてみたが、明確な答えは返ってこなかった。そこになにか外傷(トラウマ)的なものがあるのは、わかっていたがそれが何なのかはついに聞けずじまいで疎遠になってしまった。
今回この小説でコジマの生き方を見て、彼女の一片をやっと理解できたような気がした。
まさに彼女はコジマだったのだ。
自分の人物理解の浅さにがっかりするけど、彼女の深い絶望を前に自分は徹底的に無力だったことを思い出す。
10年経った後でわかってくる真実があるなら、少しでも長生きしたいと思った。
小説はこういうことを平気で媒介する力があるのだ。
今、思い出したのだが、そのお風呂に入らない彼女とは反=携帯同盟というのを組んでいて、ふたりとも人間から孤独を奪っていく携帯電話の普及に対していらだちを感じていて、もう周囲で携帯を持っていないのは2人だけになっていた。でも、自分が働くようになってからは仕事でどうしても必要となってしまい自分は携帯を買ってしまった。それが裏切りとうつり疎遠になってしまったのだろうか。それだったら、彼女はますますコジマのようだ。
コジマや彼女のような女性の受け身による怨嗟はなかなか男には理解できないし、男が抱え込む性の暴力性の問題も女性と共有することは難しく、平行線をたどる。
昔、大学のゼミでこんな内容のことを議論してたら、最後のまとめでリーダーの女性が「男の人はセ×××の時に女の人の苦しむ顔が見たいということですね」というまとめのコメントを出し、皆唖然としてしまった。
2時間くらい皆で懸命に激論して、そこに落とされてしまった。。教授だけクスクスしてたけど。
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