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2009.09.11 薄暮に吹く風
higure


今日は窓のそばに立つと一日中、そよ風がゆるやかに頬を撫でてくれて気持ちよかった。
夏の湿り気を含んだ風とは違う風。風にも千変万化する表情がある。
夕方にはもうその風はひんやりとさえしていた。

風を描写することは難しい。
特にアニメにおいては一番表現することが難しいのが風だと言われている。
宮崎駿はその風を表現することを最も得意としている。
どの作品も風が有効に表現されている。
最も難しいことを最も得意とすることが才能と呼ぶのかな。



ひとは生涯にそう何度も傑作をつくることはできない。
絵画にしろ、映画にしろ、文学にしろ、漫画にしろ、写真にしろ、音楽にしろ、建築にしろ、最良の作り手であっても何度も恒常的に最良のものをつくり続けることは難しい。
なぜそんなことが起こるのだろうか。


たとえば、宮崎駿を例にすると後のどの作品よりも初期の「未来少年コナン」の出来映えにはかなわない。もちろん最近の作品の方が、技術や思想性などはるかに高いレベルであることには間違いないが、それと作品としての凄さは関係がない。未来少年コナンはどの画面も一分の隙もない活劇としての運動神経に満ちていて、この作品を作ってくれてありがとうと素直に言いたくなる。

作家はつねに世界の豊穣さと対話することで、なにかを掴もうとする。
でもその対話の仕方が間違いであったり、作家の生理に反していたりすれば、はるかに劣化した対話の結果しか出ない。
世界の豊饒さに奇跡的にシンクロし同化することができたら、そのとき自身は世界を翻訳する媒体、器となるだろう。
音楽家が曲が降りてくると語るのは、このことではないだろうか。

なにかに触れてしまっている、という言い方をしたい。
そう、その表現はなにかに触れてしまっている。
最高傑作はなにかに触れてしまっている。確実に。
ゴッホの「カラスのいる麦畑」、北野武の「その男、凶暴につき」、荒木経惟の「センチメンタルな旅」、鳥取の投入堂、大江健三郎の「万延元年のフットボール」、ブルックナーの8番、マイルス・デイビスのKind Of Blue…挙げていけばきりがない。

ひとは作品より小さい。つねに。
なにかに触れてしまった作品には、人間すらいない。
そんな作品をひとは生涯にそう何度もつくることはできない。



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