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kagayaku edamame


枝豆が毛深いので夕日に当ててみた。
黄金色になった。
でもその時、黄金色になっていたのは、枝豆だけではなかったにちがいない。
塀とか壁とか、アスファルトとかすべてが夕日のためのキャンバスになって。
こういうのを平和と呼びたい。

グーグルのトップページは、そのロゴが日々イラストとして変化している。
こういうマッキントッシュ的発想が好きで、昨日はgoogleの「oo」の部分がマイケルジャクソンの足になっていて泣きそうになった。今日は選挙のイラストだった。

朝から投票に出かける。投票所は母校の中学校で、校舎に入るのは10数年ぶり。
全てが懐かしい。あの樹もその木陰もあの雑草が激しく生えるところも、時計も渡り廊下のひんやりした感じもすべて克明に覚えている。体育館裏の死角になる場所は悪友と悪さをするところで、ベンジンで火炎瓶をつくった記憶が蘇った。ベンジンメーカーの会社名まで思い起こすことができる。

火炎瓶に火をつけ、その友人と橋の下のコンクリート壁に思いきりぶん投げた。
壁に当たって割れた火炎瓶は、中のベンジンを周辺にまき散らし、炎の海をつくった。あの炎の海の広がりが今でも忘れられない。アナーキーという言葉は知らなかったけれど、その本質の一片をあの炎に見たのは間違いない。中学校時代の記憶はあの一瞬の炎に収斂されたのかもしれない。これでも表では模範的優等生だったのだから笑える。というか酷い生徒だ。

体育館から聞こえるバスケットシューズの床をキュッキュと鳴らす音を懐かしく聞きながら、火炎瓶のことを思い出していた。



探偵ナイトスクープで、幼い時に父親を失った高校生からの依頼。
なんでも父親が元ヤクルトの飯田選手に顔がそっくりだというので、亡くなった父親の代わりにキャッチボールや肩車、腕相撲、人生相談をしてほしいという内容。
飯田選手との1日。律儀に飯田選手は青年のリクエストに応えていく。ロールプレイング。(かつて父親が着ていた服を着て!)相当、残酷な感を受けたのは自分だけか。
番組のテイスト上、笑いの方向性へ引っ張っていたけど、笑えないと言うか、それは父親を失った青年にとって切実で逼迫した何か忘れ得ぬ決定的な1日となったのではないだろうか。その青年はずっと泣いていたし。

幼少時に親を失った喪失感は自分にはわからないけど、この体験は青年にとって将来どう反復されるのかが知りたい。彼が父親に似た飯田選手を前に、その近似性より差異性に目を向けることで「父親はもういない。誰も代わりはできない」という認識にかえって達することできたら、それはこの番組の企画も青年にとって成功なのではないかと勝手に思った。
人は何かを失ったと思うことで、何かを失う。しかしそもそも、何を失ったのだろうか。

黒沢清監督の「ニンゲン合格」という映画の一節。
記憶障害の主人公。周りが失った記憶を埋め直そうと、過去の雑誌や新聞を集めてきて必死に失ったものを与えようと努力するのだが、主人公にはその意味がわからず、「おれ、なにを失ったの?」と問う印象的なシーン。

少し話しがそれるけど、従軍慰安婦問題や南京大虐殺が問われるとき、いつもそれはあったのか、なかったのかが焦点となる。タイムマシーンでもない限り、それを検証して証明するのは難しい。
フロイトの精神分析学では、問題は実際にあったか否かではなく、その〈傷〉をリアルに生きたかどうかが問題で、幻想でもそれを〈生きた〉ならば、それは現実となる。左右の歴史家ともこの視点はない。
以前、幻聴症状をもつ友人がいて、「Aがおれのこと~って悪口言っていたんだ」と相談された。その場合、いやそんなこと言うわけないじゃんとか言っても始まらない。言っていたかどうか本人に聞いてみようかと言っても始まらない。彼は悪口を言われた〈現実〉を既に生きたのだから、それは〈真実〉だとして話を聞かなければいけない。

タイトルの問いに対しては、取り戻せないし取り戻せるという両義的な答えしか今の自分には出せない。でも自分は失ったものは二度と取り戻せないんだ、と思うことの方が元気が出るのはなぜか。
世界は常に楽天的な認識を拒絶する。




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