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2009.08.28
下克上を超える晴れやかな生の肯定

なぜかバッタが部屋で転がっていた。固くなっていた。
この家はチーズのように多孔質で、きっといろんなものが侵入してくるのだろう。
来るものは拒まないのが信条だから、それでもかまわん。
人も虫も死んだら物になる。残酷なまでに。
物質って残酷だ。
沈黙が深い。
バッタの冷えた体表に緑色が鮮やかだった。
庭に放って、蟻に食べてもらうことにした。
自分の庭でとれた枝豆は毛深かった。
野放図に育てるからだろうか。スーパーのものより断然毛深い。
農薬を使わないため、毛虫との共生。毛虫に負けなかったものを食す。
「はっきりしていることは、〈流祖の時代〉の刀法は、予測を許さない禍々しい敵手との百年の葛藤の末に生み出されたということです。そうした敵手を背腹に受け、脅しも、すかしも、厭がらせもしないものが、上泉伊勢守の刀法であった。彼の刀法がこの時代を制したことは、文化上のひとつの奇跡にほかなりません。制したとは、単にたくさん勝ったということではなく、勝つことの意味を変え、敵手を説得する「太刀(かた)」の価値を創造し、下克上を超える晴れやかな生の肯定をもたらしたということです。私が稽古する刀法は、このような一人の人物を明確にその起源に持っています。(略)」『剣の思想』甲野善紀・前田英樹
何度この文章を反芻しただろうか。
ここに書かれてあることの全てを理解出来ているわけではないけど、ここに書かれてあることの偉大さ、重大さだけは明確に感知することができる。直感的に。
インターネットを使えなかった頃、図書館のインターネットサービスでこの文章と出会った時の衝撃、心の底からの喜びを今でも思い出す。
「勝つことの意味を変え、敵手を説得する「太刀(かた)」の価値を創造し、下克上を超える晴れやかな生の肯定をもたらしたということです。私が稽古する刀法は、このような一人の人物を明確にその起源に持っています。」
自分の生きている起源ってなんだろう?
自分のちっぽけさを自覚させる文章にはそうそう出会えない。
それが嬉しかったのだ。
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