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2009.08.23 生も死も
柞原八幡宮 クスノキ 推定樹齢3000年

「すると、小さな動物の問いかけに応えるようにして、雲の切れ間から太陽が射し込んだ。見渡す限りの遠くまで白い、家も白い、低い丘も白い、フェンスも白い、丸木のベンチも白い、凍りついた池も白い、楓の木も白い、杉の木も白い、バラの植え込みも白い、枯れてしまった花壇も白い、野ざらしの芝刈り機も白い、雪かきをしている老人も白い、子供の自転車も白い、ゴミ箱も白い、郵便受けも白い、電線も白い、電柱も白い、信号機も白い、空を飛ぶ孤独な鳥も白い、(中略)白いものも、白くないものも、すべてが白かった。」
『眼と太陽』磯崎憲一郎

小説を読み終わったあとの読後感というものがあるけど、磯崎氏の小説の読後感は過去の自分にはないもので、戸惑っている。もちろん肯定的に戸惑っている。豊かな混乱。

その磯崎氏の芥川賞の授与式で、大勢の人の前でのスピーチでこのようなことを言っていたという。
「会社関係の人や友人、親類を含め八十人くらいの人を招待した、壇上からその人たちの顔を見ていると、生きているうちに自分の葬式を見ているようだ」

生と死に大きな隔たりがないこの感覚は凄いな。生と死の敷居が低いというか。
おそらくこれは彼の壇上に立った時のフッとした実感なのだろう。

生と死だけに限らず、正義と悪とか、よろこびと悲しみとか、幸福と不幸とか、あらゆる二元論の敷居は低いのに違いない。

生が死のなかに織り込まれながら、生が死に溶け込んでいる。
それらを分かつことはできないし、分かつ必要もない。
緑の木々が萌えあがっているその横溢した生命感の只なかに死の足跡を見つけ、
解体された鶏のはらわたに躍動する生の余韻を見つけることができる。
目眩がする。

樹齢3000年の巨樹を前にすると、死も生も関係なくなる。
誕生も消滅も同じ出来事として、淀みなく生々流転する現象として、この樹は記憶しているのだろうか?いったいどれだけの人や動物がこの樹を見上げたり、よりかかったりしたのだろうか?
そのほとんどがこの世界にはもう存在しない。

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