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写真-2

ニンジンの種をまいた。
陰暦で7月1日が適期のようだ。
太陰暦のカレンダーを来年は買おうか。
太陽暦は明治から使われ始めたらしい。
ここから狂いが始まったのか。

ニンジンの種はとても小さく、それこそ吹けば飛ぶようなものだ。
それを小さな掘った条にぱらぱら落として、その上に軽く土をかける。
無農薬のニンジンは柿のように美味しいそうだ。
種まきをしていると自然に瞑想状態にはいった。
このニンジンの種のような小ささこそ、人間本来の等身大のはずだ。
ゲンパツもゲンバクもわれわれには巨大すぎる。
小さな社会づくりを目指したいと心底思った。


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夏休みを利用して広島、長崎へと旅をした。
あらためて原爆の地に行きたいという思いと、
現在、広島でゴッホ展、長崎でアントニオ・ロペス展が開催されていることも動機となった。

酷暑の夏と原爆の記憶の熱さが入り混じった旅になった。
ひたすらに歩いた。
とにかく頭ではなく、体で原爆のことを受け入れたいと思っていた。
言葉によるキャプションは不要だった。
それは絵画もそうだ。

原爆ドームの廃墟の前に立ったときのなんとも名状しがたい圧倒的な暴力の痕跡に
ずっと身を浸していた。

原爆そのものも恐ろしかったが、被爆者はその後の「人の地獄」こそ恐ろしかったと語る。
差別、飢え、孤独のなかでだれも助けてはくれなかった。

中沢啓治氏の「はだしのゲン」原画展で涙した。
ゲンのまっすぐさが魂にささった。
松江市では「はだしのゲン」が閉架扱いになるらしい。
そのうち原爆はなかったとか言い出す輩も出てくるのだろう。

日本人、アメリカ人、朝鮮人、そんなものは幻想だ。
命捨つるほどのことではない。

ゴッホ展にゴッホがいた。
ゴッホがゴッホでありえた時期は意外に短いと思った。
ゴッホは37歳で死に、わたしはいま37歳だ。
ゴッホの自画像、背景が自画像を自画像が背景へと滲みだしていた。
世界とわたしが溶け合おうとしていた。

広島の原爆投下の目標となったT字の相生橋がもっとも暑かった。いや熱かった。
六千度の閃光を感じた。感じようとして立っていた。

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原爆も原発も一緒だ。
このような「力」など人類には不要だ。
いかに人類がアホか、それを両者の存在は示している。絶対悪。

長崎ではカトリックセンターに宿泊した。
信徒でなくても利用できた。
朝のクロワッサンと飲み物もついて2000円は安かった。
お風呂やトイレ、洗面室どれもきれいに清掃が行き届いていて気持ちよかった。
寝床は相部屋で一畳のベッドだったが充分だった。
立って半畳、寝て一畳という言葉思い出した。
人はそれだけで充分なのだ。
シンプルに生きたいと思った。
窓からは原爆投下付近に立つ浦上天主堂が見え、夜はライトアップされた。
朝夕には希望のアンゼラスの鐘が高らかに鳴って、このエリア一帯を毎日浄化しているようでもあった。

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浦上天主堂が広島の原爆ドームのように廃墟として残っていれば、、とも思ったが、
再建されるということが当時のみなの明るい希望だったのだと思うと、
観光客がいろいろ言うことではないと自制した。


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近所には永井隆博士の如己堂があった。
こちらは2畳の広さの庵だった。ここで永井氏は闘病生活を送られた。
他者を己の如く思う扱う。自分と同じように。

永井氏はレントゲンの技師で、患者のため大量の放射線を原爆投下前から浴びて白血病になっていた。
レントゲンと原爆の両方の放射線で命を落とした。
夫人の方が先に亡くなり、家の焼け跡から熱線で溶けたロザリオが出てきた。

溶けるものも溶けなかったものも。

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ジョー・オダネルは戦後ながらく封印してトランクに押し込んでいた長崎での原爆写真を
ある日突然開封して全米に公開した。
ある教会で被爆者の写真でつくられたキリスト像を見て、
意識に押さえ込んでいたものが爆発したのかもしれない。
そして原爆投下を正当化する全米へその悲惨さを伝えるべく講演や写真の公開活動を行った。
夫の突然の行動が理解できなかった妻は離婚を選んだ。
それでもジョー・オダネルは写真を多くの人に知ってもらう活動をやめなかった。
ここにはアメリカも日本もない。
彼の死後は息子が跡を継ぎ、原爆の悲惨さを訴える活動を続けている。


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ジョー・オダネル「焼き場に立つ少年」YouTube