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2013.06.28 未明の雨だれ
瞑想とはなんであろうか。
高いお金を払って師について道場に通ったりすることではないだろう。

私にとっての瞑想は息をすることに近い。
座を組むことも、目を瞑ることも必要ないのかもしれない。
歩行もジョギングも水に浮かぶことも農作業も瞑想と言える。
ヘッセは庭仕事を瞑想だと言った。
谷崎は薄暗い部屋で漆器にはいった黒い羊羹をみることを瞑想的と言った。


「かつて漱石先生は『草枕』の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。」『陰翳礼賛』谷崎潤一郎



排便も皿を洗うことも清掃も立派な瞑想行為。
日常の雑事も本を読むことと同じ高い精神性をもつ。
これがわからなかった。

逆に瞑想的でないものとはなんだろう。
テレビを見ること。無駄使いをすること。酒を飲むこと。怒ること。
独占すること。カネにふりまわされること。戦争、争い。独善。
必死になること、頑張ること。出し抜こうとすること。
緊張すること。

ノイジーであったり身体性から離れたり、視覚に寄ったりすると瞑想から離れる。

いくつかのすぐれたラジオ番組は瞑想に近い。
菊池成孔の「粋な夜電波」、坂本美雨の「ディアフレンズ」、
ピーター・バラカンの「ウィークエンドサンシャイン」が最近のお気に入りだ。

日々の労働はどうであるか?
残念ながら瞑想とはほど遠い。
カネのための奴隷である。
瞑想を日常生活にいかにとりいれるかを考えたら、
休日の過ごし方も変わってきた。
日々の労働の癒やしとして休日はあるのではない。
休日が主である。そこが土台である。
だから平日よりも早く起きるようにした。
休日こそ、人と関わるように心がけた。
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2013.06.21 日没前日没後
写真


キャンドル・ナイト。
こういうのは思想そのものだ。
暗闇の思想。
蝋燭の火は優しい。しみじみする。
空襲のときはこうやってみな夜を過ごしていたのかな。
視覚が使えなくなると必然、聴覚や嗅覚が鋭敏になる。
バッテリー機能のあるものは重要だ。
ノート・ブックもラジオも懐中電灯も。

この日だけは1分でもいいから、街全体の電気が消えるとおもしろいのにな。
とくに自販機は明るすぎる。防犯の役に立っているのはわかるけど。