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2013.04.30
覚者
覚者は覚醒したのち、他のものも自分と同じくらい覚醒して幸せになってほしいと各地を放浪する。おそらくそのとき、自分の幸せとか自分がどうとか関係なくなる、ただそのままで充足した自分があるのだろう。
最近はレヴィナスを読みながら文語訳の聖書を読んでいる。キリスト者ではないが文語訳の聖書体験は生々しく、ユダやイエスと直接向き合っているような気にさえなる。
***
以下はヴァンセンヌ中納言さんという方が書いたレヴィナス著『存在の彼方へ』のアマゾンレビューである。
コミュニケーションの重要性と厳しさとがこの本から伝わってくる。安易に対話という言葉が用いられる今日において、大変意味深いものである。そもそも他者と関わることとは、人間が生きていくうえで避けられないことであり、またごくありふれたことでもある。しかし他者と関わるということは、決して生易しいことではなく、大変な覚悟が必要である。人と人との間には必ず暴力の生まれる可能性があるからである。相手にコンタクトをとることは、自らを危険に晒すことであるともいえる。人はこの暴力性と攻撃誘発性とを自覚しなければなるまい。相手に語りかけることの真摯さと難しさが伝わってくる。主体が他者によって形成されるといった議論もまた、示唆に富んでいる。
確かに訳はよくない。拙い語学力で原書も読んでみたが、やはり困難であった。数ページ日本語にしてみたが、こなれない。そう意図された本なのだろう。しかし読んで欲しい。生きるとは他者とのかかわりの中で意味を成す(当たり前だね)と考えている私にとって、もっとも推したい本である。
最近はレヴィナスを読みながら文語訳の聖書を読んでいる。キリスト者ではないが文語訳の聖書体験は生々しく、ユダやイエスと直接向き合っているような気にさえなる。
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以下はヴァンセンヌ中納言さんという方が書いたレヴィナス著『存在の彼方へ』のアマゾンレビューである。
コミュニケーションの重要性と厳しさとがこの本から伝わってくる。安易に対話という言葉が用いられる今日において、大変意味深いものである。そもそも他者と関わることとは、人間が生きていくうえで避けられないことであり、またごくありふれたことでもある。しかし他者と関わるということは、決して生易しいことではなく、大変な覚悟が必要である。人と人との間には必ず暴力の生まれる可能性があるからである。相手にコンタクトをとることは、自らを危険に晒すことであるともいえる。人はこの暴力性と攻撃誘発性とを自覚しなければなるまい。相手に語りかけることの真摯さと難しさが伝わってくる。主体が他者によって形成されるといった議論もまた、示唆に富んでいる。
確かに訳はよくない。拙い語学力で原書も読んでみたが、やはり困難であった。数ページ日本語にしてみたが、こなれない。そう意図された本なのだろう。しかし読んで欲しい。生きるとは他者とのかかわりの中で意味を成す(当たり前だね)と考えている私にとって、もっとも推したい本である。
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