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2012.01.27
メルド!
矢内原伊作の書いた『ジャコメッティ』を読んでいる。
メルド!(糞っ!)の連発。
格闘格闘格闘。
出がらしからの創造。
Raconter de la merde.
直訳「糞を語る」
意味「滅茶苦茶を言う」
こんな真冬に咲くのは蝋梅という花木だ。
この黄がハラにまで染みいってくる。
花は食えないけど、私を息させてくれる何かだ。
縁側のある古い家。
花嫁さんは玄関からではなく、縁側から嫁ぎ先の家に入る。
縁側につながっている部屋は仏間と決まっている。
花嫁さんがまず最初に挨拶するのは、相手の両親ではなく相手のご先祖さまである。
縁側から花嫁さんが入る連続写真を見た。
たしか死んだ者は逆にこの縁側から外へ出るはずだ。
縁側の縁って、そういう意味なのだろうか。縁(ふち)は縁(えん)。
そういう風習が今でも残っているところはあるのだろうか。
不幸とか幸福とかを一文字に感じるあり方は根本から間違っているという直観。
わたしが人生についていろいろ感じたりすることは、すごく局所的で偏見にすぎない。
そういうところに落とし込んではならないという声がしきりにする。
それがどういうものかはわからないけど、とにかく進んでいきます。
たとえば、小説や映画が自分の人生を振り返ってそこに意味や意義を構成や解釈というかたちでつくるのだとしたら、それはつまらないことだし、芸術をひどく貶めることになる。
でもそういう物語化への欲望は油断するとついわき起こってくる。
そうではない、そうではない。
つづく、
メルド!(糞っ!)の連発。
格闘格闘格闘。
出がらしからの創造。
Raconter de la merde.
直訳「糞を語る」
意味「滅茶苦茶を言う」
こんな真冬に咲くのは蝋梅という花木だ。
この黄がハラにまで染みいってくる。
花は食えないけど、私を息させてくれる何かだ。
縁側のある古い家。
花嫁さんは玄関からではなく、縁側から嫁ぎ先の家に入る。
縁側につながっている部屋は仏間と決まっている。
花嫁さんがまず最初に挨拶するのは、相手の両親ではなく相手のご先祖さまである。
縁側から花嫁さんが入る連続写真を見た。
たしか死んだ者は逆にこの縁側から外へ出るはずだ。
縁側の縁って、そういう意味なのだろうか。縁(ふち)は縁(えん)。
そういう風習が今でも残っているところはあるのだろうか。
不幸とか幸福とかを一文字に感じるあり方は根本から間違っているという直観。
わたしが人生についていろいろ感じたりすることは、すごく局所的で偏見にすぎない。
そういうところに落とし込んではならないという声がしきりにする。
それがどういうものかはわからないけど、とにかく進んでいきます。
たとえば、小説や映画が自分の人生を振り返ってそこに意味や意義を構成や解釈というかたちでつくるのだとしたら、それはつまらないことだし、芸術をひどく貶めることになる。
でもそういう物語化への欲望は油断するとついわき起こってくる。
そうではない、そうではない。
つづく、
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2012.01.25
雪片曲線
雪が無風状態で漂って、その軽さのままに浮いていた。
静寂の形象、沈黙の壁があっという間に形作られていた。
暖房しても部屋はいっこうに暖まらず外の世界と拮抗していた。
テオ・アンゲロプロスの訃報。
事故死とは残念でならない。
私の青春のある大きな一部を占めていた映画作家。
ちょうどDVDを購入しようかと考えていたところだった。
「旅芸人の記録」のあの長い行進シーンを撮影しているときのスタッフや役者は、
確信のないままに監督の段取りに従っていたのだろうか。
世界を解釈するのではなく、世界を変えたシーン。
「ユリシーズの瞳」以降、わたしは関心を失ってしまったが、
「狩人」のビデオテープが手元にあるだけで勇気が与えられるような作家だった。
今後何度も何度も繰り返し作品を見ていくだろう。
youtubeで全部アップされているのも恐ろしいが。
合掌。
寒すぎて布団にくるまる。
最近ドストエフスキーがすらすら読めるようになった。
シベリア!
静寂の形象、沈黙の壁があっという間に形作られていた。
暖房しても部屋はいっこうに暖まらず外の世界と拮抗していた。
テオ・アンゲロプロスの訃報。
事故死とは残念でならない。
私の青春のある大きな一部を占めていた映画作家。
ちょうどDVDを購入しようかと考えていたところだった。
「旅芸人の記録」のあの長い行進シーンを撮影しているときのスタッフや役者は、
確信のないままに監督の段取りに従っていたのだろうか。
世界を解釈するのではなく、世界を変えたシーン。
「ユリシーズの瞳」以降、わたしは関心を失ってしまったが、
「狩人」のビデオテープが手元にあるだけで勇気が与えられるような作家だった。
今後何度も何度も繰り返し作品を見ていくだろう。
youtubeで全部アップされているのも恐ろしいが。
合掌。
寒すぎて布団にくるまる。
最近ドストエフスキーがすらすら読めるようになった。
シベリア!
2012.01.23
新しい皇帝の心 皇帝の新しい心
田中正造の時代にも多少の銅は健康によいという言説があったことに笑った。
ほんだらけをぶらぶらしていたら『皇帝の新しい心』という本にぶつかる。
タイトル買いしようと思ったが、中身にうまくついていけず断念。
でもアマゾンのレビューを帰って読んだら買うべき本だとわかる。
アマゾンではいま自分が絶対ほしい本しか買わない。
書店や古本屋では、新たな自分の興味が刺激されたり興味はあったがスルーしていたものとか、
つまり偶然性の出会いみたいなものがある。
自分のいまの関心など途方もなく狭い。

南方熊楠のマンダラ。
見えるがままに書くことの不可能性。
あるがままにあるがままを書くことの。
なんの増減も変化も加えてはいけない。
ほんだらけをぶらぶらしていたら『皇帝の新しい心』という本にぶつかる。
タイトル買いしようと思ったが、中身にうまくついていけず断念。
でもアマゾンのレビューを帰って読んだら買うべき本だとわかる。
アマゾンではいま自分が絶対ほしい本しか買わない。
書店や古本屋では、新たな自分の興味が刺激されたり興味はあったがスルーしていたものとか、
つまり偶然性の出会いみたいなものがある。
自分のいまの関心など途方もなく狭い。

南方熊楠のマンダラ。
見えるがままに書くことの不可能性。
あるがままにあるがままを書くことの。
なんの増減も変化も加えてはいけない。
2012.01.12
信仰は捨てても逃走は続けた
最近アマゾンで注文すると翌日には届くようになった。
ピザが届くように書物やCDが届く。
総合百貨店の統制のきいた空気が好きでよく行くけど、そこの商品は通販より当然高い。
そこには場所代やら人件費やら光熱費やらいろんなものが入っている。
ひとつの物を丁寧に説明してくれるコンシェルジュのような店員とコミュニケーションをとっていると、自然に高くても買ってもいいかなと思ってしまう。
通販というのは必然的にそういった身体感覚を全否定するところから始まっている。
経済の合理性ということで言えば、百貨店や本屋は今と同じような「身重な」形態では、いられなくなるだろうことは明白だ。
店員との会話はただの会話か。ただ?
店員の労働が私を気持ち良くさせ、気持ち良く買い物をさせてくれる。
そこにもお金がかかっていることを通販は暴いて笑うのだろうか。
僕は貧乏なので大方通販で、カード払いですが、それがいいと思っているわけではない。
早く届くことはうれしいけど、そのために切羽詰まった感じで社員が倉庫をかけまわったり、
配送業者が追い詰められたりするのはいやだ。もっとゆったりしてくれ。
海外行くと、頼んだハンバーガーなんかドサッとテーブルに捨てるように置かれ、
えさを食っているような気分になるけど、それくらいゆるくてもいいよ。
神経症的な過剰サービスをされるより。
今日届いたアマゾンの商品も慌てていたのか知らないけど箱が破れていたが、
中身が破損してなければ文句は言わない。もちろんひどい悪徳業者はいるけど。
ああ息苦しい。
ほんとに望んでる社会が現れてなくて、勝手に過剰に配慮した社会が来ている。
変なことになっている。
近くの本屋で見つからなかった本を店員に聞いたら、アマゾンでの注文をすすめられた。
ぼくが意味不明な表情をすると、「あ・ま・ぞ・ん」と丁寧にサイト名を教えてくれた。
日常の挨拶ってなんだろうと思うこと有り。
身近にあまり挨拶をしない人が居るけど、年上なので注意も出来ない。
若い頃は挨拶など面倒なことと思っていたけど。
たぶん教育って、深い意味はよくわからなくていいからとにかく強制的にやらせるということにあるのだと思う。
おはようございますとか、おつかれさまでしたとか、っておそらく、
その都度お互いの関係を更新してるんじゃないのかと最近思った。
会社の社員同士でも近親者でも向き合えばいいことばかりでなく、
ノイズも大いに発生するなかで、かりそめにも仕切り直しというか関係を新鮮なものに保っていく効果が、挨拶には多分にあるのだろう。基本的なことだろうけどそう思った。
社長におまえの文章は中学生以下だと叱られる。
ピザが届くように書物やCDが届く。
総合百貨店の統制のきいた空気が好きでよく行くけど、そこの商品は通販より当然高い。
そこには場所代やら人件費やら光熱費やらいろんなものが入っている。
ひとつの物を丁寧に説明してくれるコンシェルジュのような店員とコミュニケーションをとっていると、自然に高くても買ってもいいかなと思ってしまう。
通販というのは必然的にそういった身体感覚を全否定するところから始まっている。
経済の合理性ということで言えば、百貨店や本屋は今と同じような「身重な」形態では、いられなくなるだろうことは明白だ。
店員との会話はただの会話か。ただ?
店員の労働が私を気持ち良くさせ、気持ち良く買い物をさせてくれる。
そこにもお金がかかっていることを通販は暴いて笑うのだろうか。
僕は貧乏なので大方通販で、カード払いですが、それがいいと思っているわけではない。
早く届くことはうれしいけど、そのために切羽詰まった感じで社員が倉庫をかけまわったり、
配送業者が追い詰められたりするのはいやだ。もっとゆったりしてくれ。
海外行くと、頼んだハンバーガーなんかドサッとテーブルに捨てるように置かれ、
えさを食っているような気分になるけど、それくらいゆるくてもいいよ。
神経症的な過剰サービスをされるより。
今日届いたアマゾンの商品も慌てていたのか知らないけど箱が破れていたが、
中身が破損してなければ文句は言わない。もちろんひどい悪徳業者はいるけど。
ああ息苦しい。
ほんとに望んでる社会が現れてなくて、勝手に過剰に配慮した社会が来ている。
変なことになっている。
近くの本屋で見つからなかった本を店員に聞いたら、アマゾンでの注文をすすめられた。
ぼくが意味不明な表情をすると、「あ・ま・ぞ・ん」と丁寧にサイト名を教えてくれた。
日常の挨拶ってなんだろうと思うこと有り。
身近にあまり挨拶をしない人が居るけど、年上なので注意も出来ない。
若い頃は挨拶など面倒なことと思っていたけど。
たぶん教育って、深い意味はよくわからなくていいからとにかく強制的にやらせるということにあるのだと思う。
おはようございますとか、おつかれさまでしたとか、っておそらく、
その都度お互いの関係を更新してるんじゃないのかと最近思った。
会社の社員同士でも近親者でも向き合えばいいことばかりでなく、
ノイズも大いに発生するなかで、かりそめにも仕切り直しというか関係を新鮮なものに保っていく効果が、挨拶には多分にあるのだろう。基本的なことだろうけどそう思った。
社長におまえの文章は中学生以下だと叱られる。
2012.01.07
月明かり 星明かり 川明かり 雪朱里
夢は毎日見ているが、そのパターンはごくごく少ないのではないのか。
ぼくは最近いくつかの夢を保持しながら目覚める、そしてこれは何度も見ていると確かに思うようになっている。とくに嫌な感じの夢はトラウマを解消するがごとく何度も何度も見る。それを乗り越えようとする。ぼくは高校から予備校浪人まで新聞配達をしていた。3時過ぎに起きての新聞配達はほとんど誰しもが無意識状態で配っていることを知っているだろうか。そんななか誰もが恐れていたのは「不着」と呼ばれる投函忘れのミスで浪人生の頃は管理者の粗暴な佐野さんという50すぎぐらいのおっさんが寮生活をしていたぼくの部屋のドアを乱暴に叩いて「不着じゃ」とそのたびに怒鳴った。彼が部屋の前を通るのを誰もが恐れた。
新聞が朝読むべき時間にお客さんの手元に届かないというプレッシャーは相当なものなのです。これがだいたい月に一、二度程度だから優秀といえば優秀かもしれないが、不着そのものよりも不着してしまうかもしれないという先取りされた恐怖感は新聞配達をやめた後も夢に何度も何度も出続けて、夢の中で脂汗をかかせます。なにしろ無意識で配っているものだから、確かに配ったかどうか自信がないのである。昨日やおととといと今日の記憶がごっちゃになって、あらためて振り返ると確かなものがどこにもないって、これ泥沼ですよ。
棋士の米長邦雄は負けが見えてくると局面をわざと複雑難解なものにしてみずからも混乱するなかで勝利をもぎとっていくという棋風をもった。その棋風は「泥沼流」と呼ばれた。ぼくはこの「泥沼流」という言葉がいたく気に入って、ばれたくないHなビデオの背表紙ラベルに泥沼流と書いてごまかした。
こうして記述しているのは「もう終わったことなんだ」と夢の自分に訴えかけたいためである。もう配らないでもいいし、不着を恐れる必要もない。夢のなかで、なんどもなんども同じルートを回って確実に投函したかを確かめているじぶんがいるのです。いまだに恵比寿あたりを配ってますよ。日経新聞ですけど。
月明かりのない東京の朝まだきの光景はじぶんだけのもののような錯覚がありました。じぶんだけが見ている気がした。今考えれば、それは見られていたんだけど。ビルディングのてっぺんにつけられた航空機用の赤い障害標識のランプが、呼吸しているかの如く明滅している朝の光景とか。闇が白くなっていくのを毎日まるごと味わっていたのは今考えれば賜物でした。
小島信夫の『菅野満子の手紙』を読了する。
小島信夫以外の小説が幼稚に見えてしまって、小島信夫以外の小説が読みづらくなっている。
作者の「作為」とか「手つき」が見えてしまうともう興ざめなのだ。
もちろん小島信夫にも作為はある。
でもそれが途方もない作為だから目眩がするのである。
侮辱なのだろうか。私はなにも知らない。
生きていても死んでいても知らない者へ知らない過去へ未来へどんどん投函していく。
意図的であろうとなかろうと多くの思想家、評論家は被災者や死者を利用しているという言葉を恐れる。
長く生きていればそれだけいろんな人の死を見ることになる。
その死から振り返ると、人には定められた運命があるかもしれないと思わせる作用がある。
でもそれは死んでから初めてわかる。
将棋の妙手と呼ばれるものは、指されるまではそれが妙手だとはわからないけど、
指された後にああこれは妙手だとはっきりわかるという。
それを思い出す。いや、もうこのへんでやめなければ。書かせられている。
今頃かもしれなくて情けないが、最近、わたしがもとめているのが希望ではないことがはっきりわかって元気が出たことをいろんな人に伝えたい。
世界はまだ不幸だってさ
ありあまる富
ぼくは最近いくつかの夢を保持しながら目覚める、そしてこれは何度も見ていると確かに思うようになっている。とくに嫌な感じの夢はトラウマを解消するがごとく何度も何度も見る。それを乗り越えようとする。ぼくは高校から予備校浪人まで新聞配達をしていた。3時過ぎに起きての新聞配達はほとんど誰しもが無意識状態で配っていることを知っているだろうか。そんななか誰もが恐れていたのは「不着」と呼ばれる投函忘れのミスで浪人生の頃は管理者の粗暴な佐野さんという50すぎぐらいのおっさんが寮生活をしていたぼくの部屋のドアを乱暴に叩いて「不着じゃ」とそのたびに怒鳴った。彼が部屋の前を通るのを誰もが恐れた。
新聞が朝読むべき時間にお客さんの手元に届かないというプレッシャーは相当なものなのです。これがだいたい月に一、二度程度だから優秀といえば優秀かもしれないが、不着そのものよりも不着してしまうかもしれないという先取りされた恐怖感は新聞配達をやめた後も夢に何度も何度も出続けて、夢の中で脂汗をかかせます。なにしろ無意識で配っているものだから、確かに配ったかどうか自信がないのである。昨日やおととといと今日の記憶がごっちゃになって、あらためて振り返ると確かなものがどこにもないって、これ泥沼ですよ。
棋士の米長邦雄は負けが見えてくると局面をわざと複雑難解なものにしてみずからも混乱するなかで勝利をもぎとっていくという棋風をもった。その棋風は「泥沼流」と呼ばれた。ぼくはこの「泥沼流」という言葉がいたく気に入って、ばれたくないHなビデオの背表紙ラベルに泥沼流と書いてごまかした。
こうして記述しているのは「もう終わったことなんだ」と夢の自分に訴えかけたいためである。もう配らないでもいいし、不着を恐れる必要もない。夢のなかで、なんどもなんども同じルートを回って確実に投函したかを確かめているじぶんがいるのです。いまだに恵比寿あたりを配ってますよ。日経新聞ですけど。
月明かりのない東京の朝まだきの光景はじぶんだけのもののような錯覚がありました。じぶんだけが見ている気がした。今考えれば、それは見られていたんだけど。ビルディングのてっぺんにつけられた航空機用の赤い障害標識のランプが、呼吸しているかの如く明滅している朝の光景とか。闇が白くなっていくのを毎日まるごと味わっていたのは今考えれば賜物でした。
小島信夫の『菅野満子の手紙』を読了する。
小島信夫以外の小説が幼稚に見えてしまって、小島信夫以外の小説が読みづらくなっている。
作者の「作為」とか「手つき」が見えてしまうともう興ざめなのだ。
もちろん小島信夫にも作為はある。
でもそれが途方もない作為だから目眩がするのである。
侮辱なのだろうか。私はなにも知らない。
生きていても死んでいても知らない者へ知らない過去へ未来へどんどん投函していく。
意図的であろうとなかろうと多くの思想家、評論家は被災者や死者を利用しているという言葉を恐れる。
長く生きていればそれだけいろんな人の死を見ることになる。
その死から振り返ると、人には定められた運命があるかもしれないと思わせる作用がある。
でもそれは死んでから初めてわかる。
将棋の妙手と呼ばれるものは、指されるまではそれが妙手だとはわからないけど、
指された後にああこれは妙手だとはっきりわかるという。
それを思い出す。いや、もうこのへんでやめなければ。書かせられている。
今頃かもしれなくて情けないが、最近、わたしがもとめているのが希望ではないことがはっきりわかって元気が出たことをいろんな人に伝えたい。
世界はまだ不幸だってさ
ありあまる富
2012.01.05
初夢
カウントダウンをして1月1日を迎えたものの、あっというまにその1日も終わり2日も3日も過ぎていった。
NHKでエベレスト山頂での世界初の撮影をやっていた。
世界の頂点からのぐるり360度のパンはすばらしかった。
そこからは付近の8000m級の山々がすべて見下ろせる。
そうでない山の峰々も波形となってそれぞれの頂点を形作っていた。
それを見ているうちに「多神教」ということがスッと理解できたような気がした。
それぞれの山にそれぞれの神様が坐している。
お互いが唱和し豊かな響きでヴァラエティに富んだ世界をかたちづくる。
頂上に登り詰めてもそこに神を見るわけでもない、
遠くに仰ぎ見るときに神、としか言いようのない近づきがたい世界を現前している。
一つの様態では語られない矛盾が矛盾のままにそこにある。
杖立温泉へ行く。寂れ具合がなんともよかった。
廃墟と新興が同居していた。
温泉場で小さい女の子がお父さんのもとへ駈け寄った際に滑って後頭部を思い切り打ちつけ大泣きしていた。そこはちょっとした勾配になっていて子供がさっきも滑って転んでいたというようなことを誰かが喋っていた。その子はお父さんに抱きかかえられてあやされていた。数分後にはもうその子は笑顔でお父さんと湯につかっているのを見て世界の完全性を覚えた。さきのエベレストの山頂からの風景は開いている完全性だったが、こちらは閉じられた完全性だった。
それにしてもジロジロ見ているわけではないが、人の裸の身体というのはおもしろく、類別できるにしても誰一人として同じものはなく、年齢でも当然違うし、骨格から脂肪、筋肉、皮膚、艶とヴァラエティに富んだ違いを見ることができる。服を着ると逆に個性が消える。身体は人間に残された数少ない自然。それはひとつの希望だろうと脱衣場で服を着ながら思った。
出頭したオウムの平田容疑者が震災を通じて自身の逃亡の情けなさを自覚したというのが興味深かった。
震災にあたってお互いの絆を深めたケースもあれば、逆に離婚や別れなどに至ったケースもあるようだ。
震災というものがなにかの認識を促した。
ボランティアという観念は教えられない内発的なもの。
これがある人とない人。これは世界観の違いでもある。
部屋の乾燥度が尋常ではないらしく、部屋干しした洗濯物があっという間に乾いていく。
外ではなかなか乾かなかったけど。
本年もぼちぼちブログを綴っていきます。
漂流してどこか遠いところへ辿りつきたい。
そんなブログであればいいなあと思う。
本年もぼちぼち読んでやってください。
NHKでエベレスト山頂での世界初の撮影をやっていた。
世界の頂点からのぐるり360度のパンはすばらしかった。
そこからは付近の8000m級の山々がすべて見下ろせる。
そうでない山の峰々も波形となってそれぞれの頂点を形作っていた。
それを見ているうちに「多神教」ということがスッと理解できたような気がした。
それぞれの山にそれぞれの神様が坐している。
お互いが唱和し豊かな響きでヴァラエティに富んだ世界をかたちづくる。
頂上に登り詰めてもそこに神を見るわけでもない、
遠くに仰ぎ見るときに神、としか言いようのない近づきがたい世界を現前している。
一つの様態では語られない矛盾が矛盾のままにそこにある。
杖立温泉へ行く。寂れ具合がなんともよかった。
廃墟と新興が同居していた。
温泉場で小さい女の子がお父さんのもとへ駈け寄った際に滑って後頭部を思い切り打ちつけ大泣きしていた。そこはちょっとした勾配になっていて子供がさっきも滑って転んでいたというようなことを誰かが喋っていた。その子はお父さんに抱きかかえられてあやされていた。数分後にはもうその子は笑顔でお父さんと湯につかっているのを見て世界の完全性を覚えた。さきのエベレストの山頂からの風景は開いている完全性だったが、こちらは閉じられた完全性だった。
それにしてもジロジロ見ているわけではないが、人の裸の身体というのはおもしろく、類別できるにしても誰一人として同じものはなく、年齢でも当然違うし、骨格から脂肪、筋肉、皮膚、艶とヴァラエティに富んだ違いを見ることができる。服を着ると逆に個性が消える。身体は人間に残された数少ない自然。それはひとつの希望だろうと脱衣場で服を着ながら思った。
出頭したオウムの平田容疑者が震災を通じて自身の逃亡の情けなさを自覚したというのが興味深かった。
震災にあたってお互いの絆を深めたケースもあれば、逆に離婚や別れなどに至ったケースもあるようだ。
震災というものがなにかの認識を促した。
ボランティアという観念は教えられない内発的なもの。
これがある人とない人。これは世界観の違いでもある。
部屋の乾燥度が尋常ではないらしく、部屋干しした洗濯物があっという間に乾いていく。
外ではなかなか乾かなかったけど。
本年もぼちぼちブログを綴っていきます。
漂流してどこか遠いところへ辿りつきたい。
そんなブログであればいいなあと思う。
本年もぼちぼち読んでやってください。
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