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2011.12.31
浄められる夜
自分の鼾で目が覚めたような気がする。
深夜に突然部屋の片付けを始める。
片付けの指南書を読みまくる。
手で触って心がときめかないモノは捨てる、の言葉に開眼。
会社の忘年会ができないくらい年末は忙しかった。
今年を振り返れば、、
大震災と原発爆発は「今年」という枠内には収まりきれない。
その大きさにこれから何年も動揺し続けるしかない。
大震災のテレビの特番。
多くの犠牲者は津波によって亡くなられたが、ほとんどが窒息死であるが、
中でも津波肺と呼ばれるものがあり、これは工場から出た廃液、
油や有毒な化学物質、ヘドロが肺に詰まり死んでしまう。
津波の色は黒く、臭かったようだ。
人間が海に流した物が人間の口から肺に入り死に至ったということか。
みなさまよいお年を。
除夜の鐘で夜が旧い年が浄められていくような気がします。
生きている者も死んだ者もひとしく。
底がぬけた杓で水を呑もうとした 尾崎放哉
深夜に突然部屋の片付けを始める。
片付けの指南書を読みまくる。
手で触って心がときめかないモノは捨てる、の言葉に開眼。
会社の忘年会ができないくらい年末は忙しかった。
今年を振り返れば、、
大震災と原発爆発は「今年」という枠内には収まりきれない。
その大きさにこれから何年も動揺し続けるしかない。
大震災のテレビの特番。
多くの犠牲者は津波によって亡くなられたが、ほとんどが窒息死であるが、
中でも津波肺と呼ばれるものがあり、これは工場から出た廃液、
油や有毒な化学物質、ヘドロが肺に詰まり死んでしまう。
津波の色は黒く、臭かったようだ。
人間が海に流した物が人間の口から肺に入り死に至ったということか。
みなさまよいお年を。
除夜の鐘で夜が旧い年が浄められていくような気がします。
生きている者も死んだ者もひとしく。
底がぬけた杓で水を呑もうとした 尾崎放哉
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2011.12.18
袖のないコート
なにもかも年内で終わらせようとするから12月は狂騒する。
二日酔いなのか風邪なのか疲労かよくわからないままに頭痛が抜けきれず、
ずっと布団にくるまる。
風が芯から冷えていて肌を刺してくる。
戦後シベリア抑留での強制労働では、コートの袖が売り買いされていたようだ。
スープ一杯とコートの袖が交換される。
その袖のないコートは新宿の住友ビルに展示されている、はず。
卓上カレンダーをアマゾンで頼んだらなぜか2011年のものが届いた。
ネットなら10年前のカレンダーを買うことだってできるだろう。
プリンターが届く。
長いあいだ家にはプリンターがなかった。
モニターの文字を目で追うのと、紙に印刷された物を読むのとでは体験がぜんぜん違う。
体のしみ込み方が違う。
クレーマー対策の講習で講師が「ひとはあるとき突然にクレーマーになるんです」と言った。
やはり変身とは予兆のない唐突なものなのだろう。
二日酔いなのか風邪なのか疲労かよくわからないままに頭痛が抜けきれず、
ずっと布団にくるまる。
風が芯から冷えていて肌を刺してくる。
戦後シベリア抑留での強制労働では、コートの袖が売り買いされていたようだ。
スープ一杯とコートの袖が交換される。
その袖のないコートは新宿の住友ビルに展示されている、はず。
卓上カレンダーをアマゾンで頼んだらなぜか2011年のものが届いた。
ネットなら10年前のカレンダーを買うことだってできるだろう。
プリンターが届く。
長いあいだ家にはプリンターがなかった。
モニターの文字を目で追うのと、紙に印刷された物を読むのとでは体験がぜんぜん違う。
体のしみ込み方が違う。
クレーマー対策の講習で講師が「ひとはあるとき突然にクレーマーになるんです」と言った。
やはり変身とは予兆のない唐突なものなのだろう。
2011.12.04
1951年のショートケーキ
遠方へ出かけるため朝6時過ぎに家を出るも、
まだ深夜のような暗さで夜気の重みに体がたじろいだ。
冬至に向けてどんどん陰が極まっていく。
陰の極まりはまた陽の極まりのはじまりでもある。
小津の「麦秋」をDVDで見る。
もう何度も見ているはずなのに、見るたびに新しい発見と感動がある。
たとえば大和から上京してきた大祖父の茂吉は耳が遠いのだが、
それをツンボと馬鹿にする子供のくだりがあった後、ふと茂吉は縁側の籐椅子に座る。
そこには外からか駕篭からかわからないがウグイスが豊かに鳴く空間が広がっていて、
耳が遠い茂吉とその音の世界が接続されないまま唐突に投げ出される。
このへんの呼吸というか世界のとらえ方が素晴らしい。
茂吉もまた大悟者のようなポジションにいる。
子供から祖父まで各々の相がそれぞれ固有の夢を生きながらも同じ屋根の下で暮らすこと。
これは脚本の野田高梧の力が大きいが省略されたフレーム外の世界、設定や背景が綿密で大きく、キャラクターの造形を一枚岩ではないものにしている。戦死しただろう息子を待ち続ける老夫婦にしても、唐突に思える矢部家への嫁ぎも昨日今日の想いではない長い時間の熟成が画面に溢れている。
この映画の1951年のショートケーキの白さがこのうえない甘みをたたえていたことも付記したい。
淡島千景のコスチュームやモダンな美しさも忘れがたい。
amore (Ryuichi Sakamoto + Fennesz )
まだ深夜のような暗さで夜気の重みに体がたじろいだ。
冬至に向けてどんどん陰が極まっていく。
陰の極まりはまた陽の極まりのはじまりでもある。
小津の「麦秋」をDVDで見る。
もう何度も見ているはずなのに、見るたびに新しい発見と感動がある。
たとえば大和から上京してきた大祖父の茂吉は耳が遠いのだが、
それをツンボと馬鹿にする子供のくだりがあった後、ふと茂吉は縁側の籐椅子に座る。
そこには外からか駕篭からかわからないがウグイスが豊かに鳴く空間が広がっていて、
耳が遠い茂吉とその音の世界が接続されないまま唐突に投げ出される。
このへんの呼吸というか世界のとらえ方が素晴らしい。
茂吉もまた大悟者のようなポジションにいる。
子供から祖父まで各々の相がそれぞれ固有の夢を生きながらも同じ屋根の下で暮らすこと。
これは脚本の野田高梧の力が大きいが省略されたフレーム外の世界、設定や背景が綿密で大きく、キャラクターの造形を一枚岩ではないものにしている。戦死しただろう息子を待ち続ける老夫婦にしても、唐突に思える矢部家への嫁ぎも昨日今日の想いではない長い時間の熟成が画面に溢れている。
この映画の1951年のショートケーキの白さがこのうえない甘みをたたえていたことも付記したい。
淡島千景のコスチュームやモダンな美しさも忘れがたい。
amore (Ryuichi Sakamoto + Fennesz )
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