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葉の色がたとえば濃い緑が黄色に近づく淡さへと変化する瞬間に光が透けると、
5月の新緑のころを思い起こさせもするが、
やはりこの急激な落日は肩を寄せ合いたくなる季節だと振り返る。


自分の駐車場に誰かが車を駐めていた。
こういうのに凄く怒る人がいるけど、自分はこういうことでキレない。
独占欲みたいな観念が薄いのだろうか。
猫が駐車場に横たわっていて、入れないときもある。
雨がずっと降っている。この季節は晴れの印象しかないのだが。


仕事なんかで100円ショップに行くとほんとうんざりする。
安いことだけが正義になっている。
物づくりの煌めきはない。
自分が安く値付けされることはなんとしてでも避けねばならぬ。
でもネットで少しでも安いのを探す自分はもうこの世界に取り込まれていると思うよ。
私は何にあえいでいるのか。


TPPが2分でわかる

TPPと中野剛志氏




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ニコ生で行われた田原総一郎氏と山本太郎氏の議論をYouTubeで見る。
田原総一朗・談論爆発!山本太郎が登場!


このなかで田原氏が「地域の概念が変わった」という指摘はとても重要である。

原発というものは買収が前提で、いままで地域買収とはひとつふたつの村を想定しておけばよかったのだが、原発事故後の汚染の広がりが10km、20kmということが白日の下にさらされると、買収する地域の範囲が広がる、つまりそれだけ買収額が膨大になり、とても電力会社では賄いきれなくなり、これから新たに原発を建設することは不可能だと。(このあたりの思考の枠組みが山本氏にはぴんときていないようであるが…)


このへんの話を聴いていて、ふと大学時代に勉強したカール・シュミットの『パルチザンの理論ー政治的なものの概念についての中間所見』(ちくま学芸文庫)を思いだし、本棚の奥から取り出す。

そのなかに「空間局面」という一節があるのだが、そこには技術的な進歩によって空間構造や空間秩序が変容していくさまが記述されている。詳細は省くが、たとえば原発の出現は放射性廃棄物のための処理庫が無主の太平洋の深海に求められたり、ドイツ軍の潜水艦の出現は海に予期せぬ別種の戦闘空間が付け加えられ(それは初めは非正規である)イギリス軍を憤激させたとかいろいろ書かれている。


今回の原発事故ではまさに空間局面が変わったのだった。空間局面の変容はチェルノブイリという対岸の火事(?)では起きず、自らの身体に放射能を浴びるという切実な恐怖によってしか起きえなかった。そういうものなのだ。残念だが。


東京電力


2011.10.22 厠の言葉
お客さん家のトイレをお借りする。
トイレの壁に飾られてあったカレンダーにフィッツジェラルドの言葉が墨で印刷されていた。

「一つの敗北を決定的な敗北と取り違えるな」


たぶん今の自分にもっとも必要な箴言なのだろう。
トイレにはこういった言葉がよく似合う。
ふっと息を抜いたときに言葉が深奥まで入ってくる感じがある。
もっと前へ、一歩前へ。



原発被害地の食材を使うと表明した、 もしくは検査しないと表明した企業
善意とは悪意とはなんであるのか。問題はいい顔をすることではない。
感情教育という言葉を思い出す。



2011.10.16 蹴火子
金木犀はかなりの距離からでも香ってくるが、その花弁に鼻を近づけてみてもむせ上がるほどの芳香ではない。匂いというのは円周上に均一に広がるのではなく、ある塊のように風にのって限定された範囲だけ強烈に束のように香ってくるのだろう。なにかと似ているけど。


***
仕事を終えて夜、国東のケベス祭りに行く。
東京に暮らしていた頃、「風の旅人」に掲載されていた船尾修の国東の写真を見てから、
ずっと行ってみたい祭りだった。念願かなう。
平日の疲れた夜に行くのに少々覚悟はいったが、なに由緒あるお祭りは人間の都合で土日にまわされたりはしないのだ。あくまで暦の日付に従う。

当日、国東の真っ暗な霧の山々を銀色の兔やたたずむ鹿を尻目に車をぶっとばして向かった。

起源も由来も不明の奇祭とWikiには記されている。
この祭りが執り行われる櫛来社にはシダの束を燃やした火の塊があり、そこにお面をつけた「ケベス」がその火を奪いにくる。それを「トウバ」(当番?)と呼ばれる氏子が阻止しようとガードをしたり棒術のようなものでケベスと格闘する。「ケベス」という名前の語源も不明。「エビス」が訛ったとする説もあるが、ここの神社の祝詞には「蹴火子」と記されてある。この漢字の表情がすばらしい。このケベスのお面もまた素晴らしい。


ケベス



その蹴火子が突入を試みること9回。遂に成功し、その火の塊を激しく掻き乱す。
その瞬間、その火を守っていた氏子の「トウバ」たちがいきなりその燃えたシダの束を棒で引っ掛けて観覧しているわれわれに、火の粉を思いっきり浴びせにかかるところがこの祭りの最高潮となる。境内は男も女も絶叫の地獄絵図のような光景。しかも当日は大雨で地面がぬかるみ、逃げまどうも泥沼に足をとられた続けた。でもこの火の粉を浴びると無病息災で過ごせるとのこと。地元のお婆ちゃんたちは自ら浴びて行ってた。

プロメテウスの火や、どこからやってきたか分からぬ来訪者「蹴火子」は折口信夫の客人(まれびと)論を容易に思い起こさせ、神話の祖型を読み取ってくれと誘われているようだが、そういった解釈に頭を働かせるよりも、この一連の命懸けの火の遊戯に酔い続けていたいと思った。火で追いかけ回されるわれわれは激しく「魂振る(たまふる)」ことになり、劇場の外部にいた高見のわれわれはいきなり内部へと放り込まれ、トランスと言うと大げさだが日常の平穏な意識からは逸脱することとなる。その火の浴びせかけの追い回しがひととおり落ち着くと太鼓が叩かれ、静かに終幕をむかえた。煙が朦々と舞う中、肝心の蹴火子を探すもいつの間にか姿を消していた。


「雲から抵抗へ」の方はしばらくこの時撮ったケベス祭りの光景をアップしていきます。





蹴火子どん



2011.10.11 隣人ほど遠し
今は会社の庭の金木犀が事務所の男臭い空気をはその香りで染め上げている。
香りは空腹を満たすことはないが、いろんなイマジネーションや記憶を、そして生きることの快を思い起こさせてくれる。


もうすっかり日が暮れるのが早く、夜たまにランニングしているときはもう暗闇の中で無灯火のチャリも多く、走るのが少し怖いが、目が慣れてくると闇にも濃淡のグラデーションがあることがわかる。


月曜日はま空を仰ぐ体力気力がある。
ひとは疲弊すると空を見上げない。


以前ウサギのようなネコがいた茂みを通るたびに見てしまうが、あれっきり見かけない。


時事談。
最近、韓国あるいは韓国文化に対する風当たりが強い。
文化的な侵略を本能的に恐れているのか。
アメリカが切り崩していった文化的な侵略の方がはるかに深刻なのに。
それにはすっかり鈍感になってしまっているし、アメリカさまなら侵略してほしいようだ。
韓国への嫌悪感は一言で言えば近親憎悪。
それらを鑑みても、アメリカは「うまくいった」んだな。
10年前にソウルを旅したときのただならぬ既視感の風景に、海を隔てて隣人がいたと思えて嬉しかった記憶が。なんとかアジア仲良くなれんものか。近すぎる遠すぎる。ハーフナーが日本人であること。



2011.10.10 南へ
光も風も穏やかな日が続く。
なにもかもが優しい表情をする。
騒々しいノイズが光にも風の因子にもなく、ただ光景を時間を素に味わうことができるような。


交配種だろうかマリーゴールドのような色の彼岸花を見た。
彼岸花が枯れたときは、茎だけがすっくと直立していて痛ましい。
稲穂が黄金に輝く背景に祭りの山車が通過していく。


罪を犯した人間が逃亡先を考えるときにはなぜか皆、沖縄を想像する。
生に疲れた人間も沖縄に行きたいと思う。
死んだら魂は東北へ向かうらしいが。


デパートに行くと既に来年のカレンダーや手帳が出ていた。
2012という文字が目に新しい。


生まれて初めて音を聴く


2011.10.06 Think different.
Apple dies

ジョブズ氏死去に少なからず動揺する。
わたしはMacしかパソコンは買ったことがない。
まだMacが30万以上する頃からそうだった。
Macはひとつの思想だったし、革命の別の謂いであった。
モノマネを拒絶し、世界を変える事に賭けていた。
銃をもつ以外の革命の仕方。
今でこそMacはメジャーだけど、昔は自分は信者だと思っていたくらい密やかなものだったなあ。Mac本体の歴代のフォルムの試行錯誤はほんとにすごい。


伝説のスピーチ


多くの場合、人は形にして見せて貰うまで自分は何が欲しいのかわからないものだという言葉がジョブズ語録の中で一番好きだ。


しかし膵臓癌は癌のなかでも厄介だなあ。。残念だ。


2011.10.05 3月の焦燥
3.11の後、気がつけば、友達がふえていた。岩井俊二
friends after 3.11


すこし冷たくない雨。
3月のちょっと寒さがゆるんだ感覚を思い出したから、今日はとりいそぎ3月だった。

長袖を着ればその服の厚みがうっとうしく、半袖では無防備な季節。
クラスでは衣替えした者とそうでない者がオセロのように切り替わる。
夏を裏切りたくなくて、ぎりぎり夏服の儘でいた。


カップラーメンの肉うどんが不味かった。
味がとってつけたような括弧付きの肉うどんで、その味が遅れてやってきたのがわかった。



頭の悪い奴ほど、頭で考えるんだよね。金村修
金村修

2011.10.02 10月の現象
もう二度と訪れる機会はないだろう土地の飲食店で次回割引クーポン券を渡された。


宮沢賢治の言うように私をひとつの“現象”と捉えれば…合点がいくことが多い。


昨日のおれと今日のおれは同じかどうか分からないとか、突然微分が理解できるようになったり。


そう考えれば、私がひとつの現象であることは希望でもある。


でもそれは唯脳論のそれとは実感からほど遠い。



わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です


大正十三年 宮沢賢治の言葉