
旧約聖書とかその他の神話、伝承話などに描かれる終末の世界には、
竜巻や強風、雷、雹、地震、津波、大雨、大雪が一度に起こるような描写が見られる。
こんなにいっぺんには来ないだろうと以前は絵空事のように読んでたけど、
現にいま、これらのことがいちどきに起こっている。
安定的な世界像のなかで緊張感なく生きてきた態度に否応なく変更を迫られる。
文化系というのはこのような有事にはひ弱なものとして位置づけられるのか。
菅直人の選んだ復興構想会議のメンバーは、東北学の赤坂憲雄、作家の内館牧子、玄侑宗久、建築家の安藤忠雄、哲学者の梅原猛といった官僚色を排した顔ぶれだが、阪神・淡路大震災の復興委員会は官僚や経済界に強い影響力をもった人物が選ばれていて機能することができたと評価されていて、これでは意味をなさないと一笑に付されている。
文学者の語る言葉と政治家の語る言葉。
政治家の仮設住宅を作りますという言葉と
文学者のこの地震大国、日本に生きる仮住まいの作法を、
身につけなければならないという言葉。
大学から無用なものとして文学部や宗教学がなくなっても、
祈る事や深い夜にひとり先哲と対話することはなくならないだろう。
3月11日になにをしていたのか思い出す。
午後から会議があって、そのままの勢いで呑み会に突入した。
テーブルいっぱいに並べられた料理を食べていた。
携帯のニュースから同僚は宮城で起きた地震を宮崎で起きたと読み違えていた。
14:46 NHK
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2011.04.25
緑

偉人とよばれる人たちのエピソードがいろいろあるけど、
その偉人ぶりは非常時にこそわかる。
たとえば、いま以前のように平静に本を読んだり、
映画を見たりすることはなかなか難しい。
世界をまなざす遠近法は明らかに狂い、
小さなものを大きく、大きなものを小さく認識してしまう。
上野寛永寺での大砲響く戦火のなかで、
通常通り講義をしていたという福沢諭吉の尋常ならざる狂気のような理性。
いまとなってはこのエピソードの重みもわかる。
荷風の被災時の日記が猛烈に読みたくなる。
美容師さんとの会話がどうも苦手なのだが、
やっとナチュラルに会話できる美容師さんと出会えた。
これって自分にとってはすごいことだと。
九州各地でも地震多発。もはや安全地帯はないな。
投票所から出た瞬間に誰に投票したか忘れていた。
出口で調査され一瞬あたまが真っ白に。
原発推進派のほとんどが当選して、原発反対派の票は伸びず。
多数決って、最強に不平等。
政治で人が幸せになることは永遠にない。
永遠の桜の木になるだけだろう。
原発とか津波被害に意識が向いている別のところで、
なにか途方もないものがひたひたと進んでいる感あり。
それがよきことであってほしいが。
不謹慎かもしれないが、
物への執着があきらかに薄くなった気がする。
中沢新一氏が緑の党のようなものを結成するらしい。
Come Into My World
2011.04.19
無題

あなたとともにいますという言葉。
日本のいくつかの場所でオーロラが見られているらしい。
オーロラって確か放射線の作用によって形づくられるのでは。
いつもある種の美しさをともなうカタルシスのイメージは陳腐。
核によって終わるというのももっと陳腐。
でもその陳腐さにとことんつき合わせられるのもこれからの人生。
鯉のぼりは素敵だが、強風で一晩中騒音がして苦しい。
ヨットの帆が風を受けているような音。
無神経な人間だが、これは神経に障る。
降ろすまでの日は数えまい。
地震予知が盛んだが、地震そのものをとめることができないことに気づいて立ち尽くす。
消防庁なんかが定めた避難区域よりも、先祖からの「この下より家を建てるな」という石碑の箴言の方がなぜ有効だったのか。法や制度といったものと自然との救い難い離反のうえにどっかり腰を据えてしまっている。
今日も月が畏ろしい。
出口王仁三郎は日本の人口は3500万人しか残らないと戦後預言している。
ちなみに大本教は反原発で知られた宗教団体である。
ちなみに氏の預言は外れたことがない。
最近はよく腑に落ちる体験をよくする。
腑に落ちるというすっきりしたものではないが、
昔した体験や見た景色が自分に大きく木霊のように戻ってきて、
新たな体験として受け止めるような動揺。
そこにはため息まじりのものもあれば、
ぎりぎりのところで肯定する狡猾さもあるし、
酔いにまかせて歓びに似たステップを踏むことも。
でもその折り返される力をしっかりと受け止めることができるのは、
自分の家があるからだろうか。
新たな決心や井戸を掘り続け明日を夢見る夢は自分の家があってこそか。
今が10年後どのように自分に戻ってくるのか途方に暮れる。
大島渚は自分が苦難に陥ったときには心中で「ざまあみやがれ」と呟くことにしているという。
これはいいと思って自分も実践し続けもうかれこれ15年にもなる。
自分に向けるざまあみやがれは、自我とのなれ合いを斬り裂いてくれる。
いや自我と出会う場所をより難儀なところにするというのか。
「私が岩の入口に通じる階段へ近づいたときに、不思議なことが起こった。つまり、私はすべてが脱落して行くのを感じた。私が目標としたもの、希望したもの、思考したもののすべて、また地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように私から消え去り、離脱していった。この過程はきわめて苦痛であった。しかし、残ったものはいくらかあった。それはかつて、私が経験し、行為し、私のまわりで起こったことのすべてで、それらのすべてがまるでいま私とともにあるような実感であった」
ユングがセイロンの寺院を訪ねたときの情景
ドナルド・キーン日本永住へ帰化手続。
The Aurora
2011.04.17
誰がために風は吹く

背筋が寒くなるような冷たく膨張した月。
研修のため海辺の民宿へ。
海から至近距離すぎて怖い。
もともと泳ぎが得意ではないので、
海にたいしては恐怖心があるが。
崖の上のポニョをもう一度見たくなる。
音楽批評の文章を読んでいたら、
なぜだか原発のことが書かれてあることに気づくものの、
シューベルトをシーベルトに見間違えていただけだった。
意識がかなり引っ張られていることに気づく。
これだけ地震が多発すると、
今日は地震はこないということが預言として成立してしまう。
安全です、ということもデマとなる。
自分だけ揺れているのに気づいた。
いま揺れてるよねと尋ねても、周りは感知しない。
会社の建物は車とかでよく震動するけど、
その揺れの質がいつもとは違った。震度1だったようだけど。
子どもと遊ぶ。
その子は自分のことを番号で呼ばれる学校の風土になじめず、
親がシュタイナー教育の学校をいま探していて宙ぶらりん。
その子は嘘かほんとか人の背中に天使の羽根がついているのが見えるという。
子どもは全員ついているのだが、大人は一部の人にしかついていないという。
おそるおそる聞いてみたら、自分にはついているらしい。
お世辞でもなんとなくほっとした。
ベルリン天使の詩を見たくなった。
天使の羽根はもげてもまた生えてくる人ともげっぱなしの人とに分かれるのでは。
ドイツ気象局の明後日の風向き予想では九州にも放射能がやってくる。
新燃岳ふたたび大噴火。
1回の生がただひたすらに日々の空しさに耐え続けることによって、
多少なりともつぶやきが希望に繋がっていくこともある。
The Mountain
2011.04.14
あたたかさの記憶

今日は高山のことがなんだか気になると思ったら、
今日から春の高山祭りが開かれていた。
観光客がめっきり少ないようだ。
廃墟となった家の取り壊し。
人の住まなくなった家は朽ちるのが早いという。
生気を抜かれたように、ただよう空気がどこまでも無機質。
あたたかいものはどこにもない。
静けさはあるが、それは棄てられた後の沈黙のようで。
原発周辺の棄てられた町の状況を動画や写真で見る。
死んだ町はゾクッとするほど冷え冷えとするものがある。
生気を失った町。
放たれた犬や牛が野生の本能に目覚めている。
家や建物、町は人がそこで生きていくことで彩りが与えられるというのはどういうことなのか。
新築マンションや住宅の明るさのなかにも、底なしの無機質感を垣間みてしまうことがある。
原発の建物のなかの恐ろしく恐怖に近い寒々としたイメージとの類似。
今はなぜだか春になっている。
高山はまだ寒い夜だろう。
2011.04.12
引用いくつか

「PTSDは被災者が”自分たちの存在が忘れられていく”と感じることと深い関係がある」中井久夫
500人いるところに300枚の毛布しか来なかったとき、担当者は平等の原則から結局誰にも毛布を与えない事を選択したらしい。避難所ごとに毛布を配布するという一段大きな平等が自壊した。毛布が綿菓子のようにちぎれればよかったのか。そのもう一段上に僕が今日も毛布の中で寝ることがある。
パトカーも平等に横転している写真を見ると、自然の「大きさ」にあらためて目を見開かれる。
新しい制服、新しいスーツのつや。
今はなぜか四月だ。
「この新しい法権利はつぎのように設立されます。生きさせる権利、死ぬにまかせる権利」フーコー
「死ぬリスク、全体的な破壊に曝されること、これがナチの根本的な服従義務のなかに、そしてその政治の本質的な目標のなかに組み込まれていた原理の一つです」フーコー
「今日も他の日々と同じような一日であるか、むしろ他の日々とまったく同じということはない一日なのです」フーコー
2011.04.11
少数報告

異様な強風の一日で、一挙に桜が散っていく。
アスファルトに花びらが敷き詰められていく。
車が通るたびに舞うのを見ると、
このピンと張り詰めた非常時に、
違うトーンのテンションが入り混じって、
ますます現実感がなくなっていく。
原発推進派の知事がすべて当選して目眩がする。
ネットでは大きな地震を予知し、次々と的中させていく人が何人もいる。
統計的なデータを用いたものから、胸騒ぎや耳鳴り、またはお告げといったものまで。
おかげで今日の大きな地震も事前に知ることができていた。
九州だから直接の被害は今のところないが。
現時点(21:40)ではまだ大きなエネルギーが残っているみたいだから、充分心構えを。
映画にもなったディックの「マイノリティ・リポート」を思い出していた。
プレコグ(予知能力者)が未来における犯罪を予知し、
警察の犯罪検挙に一役買っているという物語。
未来はいつも懐かしい。
変成意識状態にでも入っているのか、
いまUFOがあらわれても驚かないかもしれない。
ずうっと夜桜の夢の中に酔っているのかもしれない。
すごくSFを読んでいるときの感覚に近い。
いや、逆に目が醒めてきているのか。
野口晴哉氏は、暗示をかける方法を学ぶよりも、
暗示から抜ける方法を学んだ方がいいと言った。
原発の爆発によって、きっと暗示を解いたのだ。
ではこの先どこへ向かえばいいのか考える。
2011.04.10
勝手に逃げろ/人生

これが最後かもしれないと思いながら、
夜桜を目にきざむ。
「最後」のなかにはいつもロマンティシズムが漂う。
それはいつも幼稚だが。
ACTROID-F
超人とはもしやアドロイドのことではあるまい。
アンドロイドが見る原発の夢。
最後の人間。
彼女に古事記を朗読してほしい。
第一原発の状況を一日単位でレポートしているサイトを見ると、1号機の放射線が異様に右肩上がりに増大してそのまま計測不能になってしまっている。
原子炉の状態
被災地はおろか関東方面の方でも本気で九州の大分に疎開したいという人がいれば、住むところをいくつか紹介できると思いますが、食費は自己負担で農家の手伝い等ボランティア活動をしていただくことになります。民族大移動とは大げさですが、これから住めなくなる土地、経済活動ができなくなる土地が、増えてくるでしょう。九州も四国も原発だらけですが。緩慢な死を断固拒否。もう死ぬのは終わりです。荒川、なんで死んじまったんだよ。
懐かしいあの空くすぐったい黒い雨 斉藤和義
こんなときにも選挙だなんて、なかなかナイスな国だぜ。

タルコフスキーの「サクリファイス」(1986)
ちょうど15年前に日比谷のシャンテ・シネで見た。
そのときはただその審美的なところだけしか見ていなかったが。
いやほとんど寝ていたが。
その後も何回か見た映画だった。
今日ふたたび見直して、映画が世界を丸ごと抱え込む力に打ちのめされた。
こうやってサクリファイスを再び見ることのできる人生なら、
悪くないじゃないか、と酔った頭で自己肯定する。
風が柔らかいけど激しく吹き続けている。
こわいくらいに。
目が痛い。
自分で決める。
逃げる事も居続ける事も。
ゴダールの映画に「勝手に逃げろ/人生」という傑作がある。
「勝手に逃げろ」はフランス語で「sauve qui peut」。
船が沈んだり、前線が崩壊したりした時に指揮官が部下に告げる最後の言葉。
生き残れる者は生き延びよ。
指示もマニュアルももうなく、あとはそれぞれの才覚だけで生き延びよという指令。
これからも大地震や原発の暴走はある。
芸術はそういうのをすべて含み込むだろうし、
自分もなんとかその端っこにでもしがみついていたい。
一人で立つことの絶望と清々しさ。
希望と確信を以て。
これでいいのだ。
2011.04.06
海辺のカフカ

カフカの『城』を現代人の孤独を表現しているみたいに解釈してしまったら、
読む事の快楽は少しも得られない。
本人や周囲がよかれと思って、奮闘、努力すればするほど、
Kは城から遠ざかっていく。目的から遠のいていく。
主体はつねに挫折する。
いや、主体的になることの不可能性とでもいえようか。
どういうコマンドを打ち込んでも、
エラーとなってしまう地獄の冗談があの海辺で今も繰り広げられているのか。
怒りながら笑う竹中直人のパフォーマンスが急に見たくなる。
「いや、ここでは、でたらめなことは、なにひとつおこなわれていません」カフカ『城』