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2011.04.05 賜物1
朝のような夕方


最近は特別夕日に魅せられる。


夕日は太陽の位置が低いものだから、
車中の奥にまで光が届いて、
車に乗っている人たちの顔とか様子とかがあからさまによく見える。


僕の帰り道は街とは反対方向なのでいつも空いているのだけど、
片側の道路はいつも異様に混んでいて、
車を飛ばしながらも、すれちがいざま片側の車中にいる人たちの顔顔顔を、
よく見ることができた。


車の中での人たちの表情はなかばプライベートな空間であるせいか、
「油断した」顔つきを皆している。リラックスしていると言ってもいいだろう。
とくに仕事が終わった帰りは。


その油断した人たちのたくさんの顔を一挙に見た時に、
なぜだか多幸的な感情に包まれた。



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日がいつのまにか長くなっている。
日の長短への気づきはいつもいつのまにかだ。
日が長くなると、なんとなく疲労度が薄いような。
疲労とは闇の中で出会うものなのか。


人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものはない、
という不思議な言葉を思い出す。


ブルガリアヨーグルトの普通の味だけいつも品切れ。
仕方なくストロベリーとかアロエを買う。


昨日のNHK特集は途中から見たけどよかった。
原発被災地に住む作家玄侑宗久氏の特集。
地震国に住む人間としての「仮住まいの作法」を
問うていたところにぐっときた。
原発の近くに住みながらも、ここを逃げれば私の言葉はないとした玄侑氏。
死んでいった者たちに死に甲斐があるとすれば、生き残った者が変わることだと。


真ん中にいなければ語れない言葉たちがそこにはあって、
そういう言葉に飢えていたことにも気づかされた。



Mt.


なにか重い物をもった記憶はないのだが、
目覚めたら背中の筋肉やなんかが痛くなっている。
いつのまにか何かを背負わされているのか。
でもその痛みが心地よくさえ感じられ惰眠をむさぼる休日。


なんだか京都の古寺とか行って苔を見たり、茶室に座したり、
沖縄に行って潮騒を一日中聴いていたりしたい。
昨日今日ではない時間のスケールのなかに身を置きたいのだろう。
放射性物質が中和や霧消してくれるような時間をもちたい。
プルトニウムの半減期は2万年以上だが。


非常時から平常時へはどのように移行していくのだろうか。
震災とは関係のない報道、たとえば殺人事件の記事でさえ、
なにか平常時に戻ったかのような安心感がある。


9.11の時もそうだがいきなり殺人事件の報道が減った。
単なる報道がなされてないということなのか。
非常時において殺人事件が減るというのは、
うまく説明はできないが納得できるものがある。
被災地と非被災地では状況は違うだろうけど。


うすら寒い中、お花見。
とにかく今はまだ桜がこの時期に咲くというサイクルの中にいる。
花見の儀式を淡々とこなす。

昨日と同じ態度で生きていく事が善なのか、
まったく違った生の在り方を模索していくことが善なのか、わからない。
いやそもそも善を求める事が少なくとも、いまは最優先ではないのだろう。


今後、原発問題で政府や東電等が発表する内容以外の情報を流したものには
「デマ・憶測」として警察庁は摘発するというのは本当だろうか。
これ自体が「デマ・憶測」であってほしいが。