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goat


1分間の黙祷さえ長く感じられた。
途中薄目をあけると、世界が静止しているかのように皆大人しくじっとしていた。
わずかに足元の雑草が小刻みに神経症的に揺れていた。


光速で宇宙を飛ぶと年をとらないけど、
引き返す瞬間に一挙に時間が追いついてきて老けるという現象に似たものが、
黙祷の沈思している際に訪れた。
この3週間近い時間の厚みをいま不意に引き受けたような。
目をあけて、いつものモードに戻るまでに時間がかかった。


震災から2日後に東京を離れて九州に「疎開」した学生と会う。
その尋常でない判断の早さに驚くが、疎開もまた神経をすり減らす日々のようで、
危なくても東京の方がいいやとならないように疎開生活を楽しんでもらいたい。
ラジウム温泉を紹介したらうけた。
笑うと背骨がゆるむのがわかって、呼吸が深くなるような気がして体にいい。


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亀甲


うまいラーメン屋を新規に発見することの喜び。
店のたたずまいからして、これはきっとうまいラーメン屋にちがいないとふんだ。


毛布や生理用品などが公的な救援物資として認められ、被災地に送られている。
小説とか画集とか音楽が、生活必需品なみに必要な方もいるだろうけど、
これらは余計な物として後回しにされてしまうのだろうか。


自分は極度なストレスに晒された時、本と向き合ったり映画を見たりする事でかなり救われる思いをする。そんな時、「映画は人生よりも大きい」という誰かの言葉を思い出す。人生よりも大きなものに触れることで、ストレスを相対化するのだろうか。そもそも、「大きい」ってなんだろう。でも優れた作品にはその大きなものに確実に触れる感触がある。ブルックナーの音楽だけしか聴けなかった時期もあった。


動画サイトで都心の計画停電の状況を見る。
電気が落ちた暗闇の街の迫力。
闇を駆逐したいという人間の欲求の凄まじさを逆に見た気がする。
物故した中津市の作家松下竜一の『暗闇の思想を』を思い出す。
豊前の火力発電所の建設に反対し続け、暗闇に耐え冷えびえとするまで思惟し続けよと呼びかけた男。



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人でごった返す公園で私の名前を至近からぼそりと呼ぶ者がいる。
いや、呼ぶというよりつぶやくに等しいような自信のない声。
自信のない呼び声に自信をもって振り向くことは難しく、
なにかの聞き違いかとスルーするも、何度か自分の名前がつぶやかれて、
ついにその声の主と目が合う。その間は2秒もなかっただろうけど。

おれ覚えてるか、と問われるもすぐには思い出せず。

その白い顔を注視するうちに小学校時代のO君であることを、
顔の面影のみで想起することができた。

O君とはあまりいい思い出がないのだけど、
じつは小学校時代は苦々しい人物でもあったのだが、
その苦々しさの片鱗が言葉の端々に残っていたことに安心しさえもした。

ずっと自分にとってしこりのあった、言い残して去っていった人物かもしれないが、小学校の頃の怨恨を今さら打ち明けてもどうにもなるまいと思って、ただの無駄話に終始してさよならも言わずにまた別れた。

こんな時節に、こんな個人的な出会いがあるとは、このミスマッチぶりに救われた気がした。
いや正確に言えば、救われなさに救われたというか。

O君の横には彼の幼なじみのK君がいた。
K君とも懐かしい再会だったが、K君は伏し目がちな思慮深い人間に変わっていた。
細身の体型は相変わらず。
以前なんかの会議で自分の席の後ろに座ったが、自分だと確信がもてなくて声がかけられなかったという。
そういう性格の人間になったことに少し安堵した。

Oはわかんない場合でもとにかく声を発し、Kは躊躇し口ごもる。




鼻がぐずって、風邪なのか花粉症なのかわからぬ。
でも集中力が落ちている。
通奏低音のように精神生活を支配している原発での出来事。
でもそれも一日遅れとかのリポートで。
遅れて届く衛星放送のように、終わりが伝えられたときは、
もう昨日のご飯でも食べている時かもしれない。



昔、映画の脚本の先生に言われたこと。
「おれは自分が傷つくまで書く」

まだそこまで100歩遠く。




2011.03.25 プラウダ
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また急激に寒くなる。
でも体のほうは、まだ寒さの側に軸足を置いているようで、
寒い日の方が調子がいいように思える。


自分の働いている小さな会社は、
どうにも皆のコミュニケーションが不活発で、
それが飛躍しきれない要因かとも思うのだが、
震災後はなにか皆テンションが上がり気味で、
コミュニケーションが活発になっている。


炊き出しを吹き出しと読み違えそうになる。何度も。


災害などある強烈な体験を共有し、
多くの人が昨日とは同じ思考ができなくなること。
過去との断絶。
フーコーは昨日とは違う方法で思考することが哲学だと言っていた。


変化や飛躍というのは努力の結果というより、
そうせざるをえないような中での結果なのではないか。


プラウダというロシアの新聞社が最近日本のある場で質問していた。
ゴダールの映画のタイトルにもあったような。懐かしい名前だった。
でも旧ソ連とかにおける右というのは左のことなのかとふと思った。


被災地との温度差。
気圧や気温のように、それを均質化するような力が自動的に働いている。
被虐とか嗜虐がこのような場所で起動するのか。
均質化にあらがうためのKYは可能か。


腹を下す日が続いている。
なにかを消化できていないようだ。



2011.03.23
残波


唐突に39度くらいの発熱。
体の内側から震えてくる。
こうやって熱を起こすのだそう。
よくできてるとつくづく思う。
震えて眠る。


ふと目覚める。
なんとなく熟睡できていない。
ずいぶんよく眠ったと思って時計を見たら、まだ夜の11時。
目が覚めてから空虚へ落ち込む。


水の買い占めなんかのニュースを聞くと、
パニックとはパニックのためのパニックであるような気がしてならない。


高熱なんかでうなされていると、
いつもとは違う思考や感覚が自分を圧倒的に支配してくる。
心細さもそうだろうし、妙な粋がりや解放感もある。
普段できそうにないことができるような気がしてくる。
まあこれらは頭の中だけでのことだけど。


30も半ばを過ぎると、体の不調時のパターンがわかってきて、
熱もここを過ぎれば冷めてくるとか、こうした方が早く治りやすいとか、
傾向がみえてくる。でもこういう傾向も年齢とともに変化してくるのだろう。
人生はすべて崩壊の一過程であるわけだし。


「第一の種類の崩壊作用はてきぱきと運ぶー第二のものだと、起こってもまず気がつかないかわりに、まったくだしぬけに致命傷をつきつける。」フィッツジェラルド


でも高熱にうなされた時に決まって見たあの漠然とした恐怖の夢を最近見なくなってしまって残念だ。こどもの頃から決まって見ていた夢があったのだけど。
夢だとわかっていても恐怖のどん底の突き落とすあの夢を誰かと共有することはできるのだろうか。




2011.03.21 ぶぶ漬けの味
厚ぼったい雲


部屋から小鳥の声がよく聞こえると思ったら、
窓があきっぱなしだった。
いつから開けていたのか、思い出せない。

水彩で描いたことのあるような雲が広がっていた。
ちょっと水で滲ませた感じの。
そんなことを思っていたら、雨が降り始める。
雨の降り始めに立ち会うというのはいつも一瞬、神妙にさせる。
子どものときはただ単にはしゃいでいたような気がするが。


政府の発表とツイッターやブログ、海外などの分析があまりに違いすぎて、中心が空洞化してしまっている。
この二重性にとことんつき合わせられている。
バルトを俟つまでもなく、もともと日本はそういう国だったのだろうが。
中東でSNSによる革命の勃発がいまいちよく理解できなかったのだが、
この空洞化を目の当たりにすると、そうかと得心した。
中心での言語はなにものによっても保証されていないということが暴露されたということか。
いや、そんなことは以前からわかっていた。
むしろそれを建前として受け入れる余裕の作法が文化としてあった。

信じるふりをしてとっとと逃げる。

大本営発表の愚から学んだのは、中心には本当のことはなにもないことだった。



「本当のことを云おうか」谷川俊太郎

「僕はこれからは絶対なにも信じないと誓った」敗戦後の大島渚。



建前という日本の資源が政府ごとぶっ壊れないことを祈る。

もちろん建前は本音との対概念だから、本音がなければ建前もないのだが。

そうであるなら元も子もないが、政府自体が一私企業の報告を鵜呑みにしている様子だと中心の空洞化は周辺にも及ぶだろう。それが風向きによって影響するのかはわからないが。それが測定されるのはずいぶん後になってからになるだろう。その時はもういつものように手遅れなのだが。



育児ストレスのせいか上階に住む若奥さんが、泣く赤子に怒鳴り散らす声が響いてくる。
お母さんの叫びと赤子の泣き叫ぶトーンが見事にシンクロしていた。


いまはとにかくテクストを読む。あやうく『責任という虚構』という本を買いそうになった。


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「とりわけ患者を理解しないようによくよく注意しなくてはいけません。理解してしまうことほど皆さんを惑わすものはありません。」ラカン


現場の放水作業の映像。
事態の深刻さと放水車による放水作業のローテクさにギャップがありすぎて目眩がする。


ずいぶんあたたかい一日だった。
同じものを見ているのに、見える風景がいつもと違う。
街の騒音を音の連なりのように聞いてしまう絶対音感の人のように、なにか風景から予兆や異変を、メッセージを導き出そうとして、身体のセンサーが鋭敏になっているのかもしれない。象徴界が変質することがあるのだろうか。


たまに出てくる千葉にある放医研。
映画学生だったころ、映画の製作資金が足りなくなってスタッフ皆で裏バイトをした記憶がある。
人体実験みたいなものか。
誓約書を書かされ、ベッドに寝かせられて、点滴を打たれる。
放射性物質を入れられているのだろうか。
耳元でカチンカチンという金属音を延々聞かせられる。
放射能のあのロゴマークが貼ってある部屋。
コースがいくつかあって、宿泊タイプのやつはかなりの高給だったと記憶している。
自分は5時間くらいのコースだっと思う。
出てきた時はふらふらだった。
若気の至りとはいえ、今考えるとメチャクチャな事をやっていたものだ。
それでも映画を完成させることの方が重要だった。
その後、東海村原発の臨界事故でここが脚光を浴びた時は、そんなに凄い場所だったのかと遅れて認識した。


運動家や活動家と呼ばれる方たちは何十年も、それこそ生涯をかけて、「問題」と呼ばれるものに取り組むわけだが、それが解決したときはどうなるのだろうか。アイデンティティが消失してしまったりするのだろうか。元の(元の?)暮らしに戻っていくのだろうか。また別の問題へと移っていくのだろうか。
まあ解決などないのかもしれないが。


普段人の命について語っている新興宗教の地元組織の幹部をやっている知人が今回の地震にたいしてまるで無関心なのに驚く。戦略的なのか天然なのかさえわからんが。


楽観論が悲劇に、悲観論が喜劇に近づいている。


今日はスーパームーンなの、と女性社員から言われる。生理の日かと勘違いしたが、19年ぶりに月が地球に最接近するらしい。確かに今日の月はいつもより大きく明るい。満月と地震は関係あるみたいだから、また注意しなきゃな。

カウンターが10,000を越えていた。


道なり


なにかいつもと違って緊張しているように思える。
とても揺れ続けている。

戦時中ってこんな感じだったのかと思う。

1週間まえのことをなんとか思い出す。
大相撲の八百長問題とかKARAの解散騒動とかリビアとか長友の活躍とか。
1週間前がすごく遠い。
小向美奈子に「さん」がついていた。1週間前に戻れたような気がした。
一瞬、現実逃避。ん?現実?

ディズニーランドと液状化は似合いすぎている。

仕事で九州電力に行ったら、とても暗い雰囲気だったと、
思ったら、室内照明の光量を落としていた。
Mステまで暗かったのは、ほんと悪い冗談かのようだった。戦時下。

いろんな問題が議論されている。
みんな問題が好きだ。問題を軽視するやつはヒコクミンのように扱われる。
花粉症問題も辛い。
花粉症と放射能は似ているか。

なぜだかわからないが哲学書が異様に読みたくなっている。
ほんとにヘタレだと思う。
本棚にあるものをあさる。
詩のように読む。

子宮検診を今度受ける女性社員から触診ってなにするんですかと聞かれる。
普通に答えそうになる。

放水という作業は素人でもできるのだろうか。
ブログやツイッターを見ると、自分が志願してやってもいいという意見がいくつか見られる。
こういうのを何権というのか。特攻権?聞いたことない。
こういう志願をする権利は認められてないだろう。

「わたしは絶対志すなんていうことはしません。志したことなんて一度もありません」大島渚

非常時とツイッターはとても呼吸がいいが、まだ始めてません。

原発は長い間テレビなどで論じられるのはタブー扱いだったため、
急にこうしてオープンになると、どぎまぎしてしまう。
今日からAVのモザイクはなしです、なんていう日があるんだな。
ほんとにどうかしてるぜっ。

映画監督の森崎東は共産党での体験を通じて、
この世界がすべて冗談に見えて仕方がないという話を思い出した。

大西巨人の『神聖喜劇』を偉大な冗談として読む。

わたしは人がなにを言ったかということを異様に記憶しているようだ。

ああ、このところただ言わされている、行動を強制されているままだ。
真面目って恐ろしい。真剣になっていいけど、真面目はいかん。

湾岸戦争の報道が流れるラジオの前で、
ただひたすらにマルメロの果実と向き合って画を描き続けた
画家を描いたエリセの「マルメロの陽光」のDVDが急に見たくなって、
あたりを探すも見つからず。明日買いに行こう。まさか品薄にはなっていまい。
買った瞬間に出てくるパターン。

「彼は、世界を救済し、失われた幸福を再びこの世にもたらすことを自分の使命だと確信している。しかしそれが実現されるためには、彼があらかじめ男性から女性に性を転換させておかなければならないと、考えている」『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』フロイト



2011.03.16 良心
生意気すぎるがかわいいので、なでてしまう



ぼろぼろに骨組みだけになった廃墟を前に健康に影響はありません大丈夫です安定していますと説明したり、住民への避難指示は20kmなのに健康に問題ないと言っていた当人たちが50km以上離れたところに退避したり、このさなか建設継続中の原発があったり、津波がつまみに聞こえてきたり、丁寧に同じ段取りで順番に爆発していたり、停電がなければ怒ったり、原発はクリーンなエネルギーだと主張されていたり、なにかここ2,3日はカフカ的な悪夢を見ているようだ。悲劇は喜劇にこれほどまでに似ているとは放射性物質のせいではあるまい。

故郷に戻ってからできた友人が反原発運動の活動家で、オルグされたというわけではないが休日とか彼の属している市民団体の活動を手伝ったりしていた。反原発(あるいは脱原発)という方向性には納得するものの、その市民団体特有の「健全さ」がどうにも苦手で自分には馴染めず抵抗があり、絶妙な距離感をもって接していた。今もだけど。自分の正しさのみを前提に動いている人にある種のもろさを感じてしまって、その組織のなかでも下ネタとかお金儲けの話とか通俗的な会話のできる人たちの方を信用していた。世界を変えるのは、自分は正しいという思いよりも自分は間違っているかもしれないという知性であると言ったのは内田樹氏だったか。

予知や預言は事後的にしか確認されないけど。

いろんな人がいたけど、彼らを支えていたのは万が一事故が起こったら、という万が一の破局を人間として拒否する姿勢だった。反原発の人間に対して、じゃあ携帯もパソコンも電気を使うなよというような幼稚な話が1パターンのように出てくるけど、実際にほとんど電気を使っていない、ある人はほんとに原始的な生活をしている人もいた。万が一を回避するために20年も30年もボランティアで活動し続けるのは相当きつい抵抗だろう。誰からも賞賛されるわけでもないどころか、頭がおかしいとかヒステリックとか左翼団体とか言われ続けて。そして彼らはいまこの事故を起こしてしまった罪を自分のものとして引き受け、つまり敗北として捉えている。そして今日、彼らは原発周辺に住む人たちを九州に疎開させようという計画案を作ってマスコミに話していた。



hikari


目が覚めている間だけ現実感がない。
でもその現実感のなさゆえの圧倒的な強度、確かさに触れている。
これこそリアルの本質なのかもしれない。
確認しようがない。


あれはなんの小説だったか、内戦が激化するボスニアが舞台の。
ボスニアのあるアパートの一室で殺された女性の殺人犯を追い求めるひとりの刑事の話。
多くの死とひとつの死。
この死とあの死。
たった一人の戦争。ランボー
私だけの戦争。


昨日、ポピュラーだったアニソンが遠くに感じられ、
崇高ささえ感じたことを書いたが、それはすべてにわたって、
とくに言葉においてそうだと今日悟った。
以前聞いていた曲の歌詞や書物の言葉がまったく違った響きをもって届いてくる。

日本国土全体が数m動いたようだが、
言葉はそのかつてあった国土の彼岸から聞こえてくるのだろうか。


タルコフスキーの「サクリファイス」という映画を再見する。
核ミサイルが撃ち込まれた後に喋ることができない病弱な子どもが木に水をやり育てる。
その木の根元に寝転んだ子どもは奇跡が突然起こったかのように、
いやそれが当たり前かのように話をし始める。
バッハのマタイ受難曲が流れている。

「はじめにことばありき。なぜなのパパ?」




いつもどおり会社に行ったり、酒を呑んだり、
ブログを更新したりすることの倫理。
いやそれしかできないのだ。

ある人が東北の美術館のコレクションを心配していた。
これも倫理的である。

安吾の凄まじさを、今思い知っている。


日経新聞のweb版はヘッドラインの級数が異様に大きく、動揺させる。
もはや事件と文字の級数の大きさは並走しているのか。

新燃岳がいつの間にか大爆発を起こしていた。



希望と確信を以て A.タルコフスキー