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2010.10.30
思い起こし

ひさしぶりにまともに休みがとれて、
とにかく眠って過ごす。
途切れ途切れに夢を見るが、感触的にしか思い出せない。
夏も秋も一気に通過してしまったかのような寒さ。
秋が体感的にどのような気候だったのか思い出せない。
ある小説を読んでいたら、ビクトル・エリセ監督の映画「エル・スール」の話が書かれていて、一気にこの映画を再度見直した時の静かな衝撃を思い出してしまって、異様に興奮する。映画も小説もそれを体験している間でしか存在できないが、見ていない時であっても当然その衝撃の残響みたいなものはずっと身体の芯に残っているものだなあとあらためて気づいてしまう。
消えていくものとか、忘れ得ないものとか、それぞれがどのように身体に刻まれているのか複雑すぎてわからないが、たとえば昔飼っていて死んだ猫とか、やっぱりたまに思い出してあげるのは大事なことだと思うし、それと同様にいや全然違うかもしれないが、かつてえらく衝撃を受けた作品を再度見直すことの重要さもやはりある。20歳の自分ではわからなかったことを当然50歳の作者は作品に散りばめている。
最近は年をとることの重大さにやっと気づけるようになった。
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中国での反日デモの様子を見ていると、思わず「症候…」とつぶやいてしまう。
「つまり症候は、主体がその欲望を持ちこたえなかったという事実を語る妥協的形成物であり、だからこそ、欲望の真実への接近は、解釈による症候の解消を通じてのみ可能なのである」ジジェク
熊が多く出没しているこのヒステリックな感じ。
唐突にきつく抱きしめてと言われたら、そこには埋めるべき空虚が唐突に出現したということなのだろうか。それは自分でなきゃだめだったのだろうか。そんなことを考えていたら、夢の中で大泣きしている自分がいた。それはあまりの歓喜の涙だったが、哀しさにもとことん似ていて、この夢の解釈に悩んだ。夢そのものよりも解釈の方が大事だわ。
今日はいつもより早く帰る。
カレンダーの27日に思いっきり赤い丸印をつけているのだけど、なんの予定がはいっているのか思い出せない。
2010.10.20
百舌のはやにえ
なにお書こうとしているのか忘れた。
朝、開けた窓から百舌っぽい鳥がずっと鳴いているのを聞きながらコーヒーを飲めてよかった。
3Dのひどい映画を見て以来、なにかげっそりとしているような気がする。
映画と世界は同じことだから、いい映画をつくることは人類の義務なんだよ。
朝、開けた窓から百舌っぽい鳥がずっと鳴いているのを聞きながらコーヒーを飲めてよかった。
3Dのひどい映画を見て以来、なにかげっそりとしているような気がする。
映画と世界は同じことだから、いい映画をつくることは人類の義務なんだよ。
2010.10.14
特性の無い夜

領土問題で怒って、義(公)憤であるかのようで私憤。
あの時、彼や彼女を助けてあげれなかったなあという思いがたまに去来する。
見てみぬふりというか、どうすれば助けてあげられるのかその時はわからなかった。
いまではわかるけど、当人はもういない。
後悔は当人がいなくなって初めて可能になる。
きのう初めてゴキ○リが部屋に現れた。
ゴキ○リの出る部屋は化学物質にまみれていない健全な部屋だと聞いた。
マーガリンはゴキ○リでも食べないと聞いて、捨てたパンを思い出した。
2010.10.11
非存在

焼酎好きの友人のため高価な方の黒霧島の25度を買ったら、20度の方がおいしいと言われる。。
秋の夜はとても深い海の底にいるように静かだ。実際はけっこう鈴虫が鳴いていて無音ではないのだけど、鈴虫の鳴き声というのはかえって静けさに寄与しているように思われる。
友を送りて雨風に追はれてもどる 尾崎放哉
ちくま文庫の『尾崎放哉全句集』約500ページ近い。
彼の人生とこの本の厚みについて考える。
<全体>とはどういうことか。あるいはまるごととは。
僕の今日の一日のすべてを丁寧に記述したりカメラで追ったりしても、
それでは<全体>をつかまえることはできそうにない。
考えたり待ったり。ぼんやりして、あるいは慌てたりして。
昼寝をしてもじぶんは無になっているわけでもなかろうし、
そうしたことも<全体>のなかにはいっている。
なんか放哉の句とかみんなやっているツイッターは、そんな全体からきている気がする。
2010.10.07
この薄っぺらい世界の

アメトークがずっとあっている。
3D映画というのを初めて見る。
ひどいな。
この映画そのものもひどいが、3Dという技術もひどい。
奥行きというのを3Dで表現しようとしているのだろうけど、
かえって奥行きを失って薄っぺらくなってしまっているのが悪い冗談のようだった。
そしてあのごつくて重いゴーグルも鑑賞中とてもストレスだ。
100年以上前のモノクロのサイレント映画の方がはるかに奥行きがあるではないか。
マツチつかぬ夕風の涼しさに話す 尾崎放哉
2010.10.03
残り時間

ブロともとやりとりしていたら、
自分はいま30代中頃で、70歳まで生きるとしても、
もう折り返し地点にきているのだなと気づいた。
いままで生きてきて遅いというより、あっという間だったとしか言いようがない。
とにかくいろんな経験をしたが、あっという間だった。
だとしたら残り半分もあっという間だ。(半分も生きれるなんて図々しいかもしれないが)
うしなったものは多いけど、まだこの世界になんにも残していないや。
わがからだ焚火にうらおもてあぶる 尾崎放哉
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