2010.06.30
練習の光景

惜敗という言葉はいままで頻繁に、しかも軽々しく使われてきたが、
昨晩のサッカー日本代表の最終戦ほど惜敗という言葉が的確なものはない。
こういう場合でこそ使われる言葉だと思った。
いまは情緒的になるよりも、けっこう退屈だった試合の感想も含めて将来の日本のサッカーを考えるときだろう。
岡田監督は「日本のサッカー」というものを、例えば南米とかヨーロッパのサッカーと単なる対峙させるのではなく、まったく違ったところから勝つための解決法を見出そうとしていたのではないのかと、昔のインタビューとか読みながらそう思った。例えば、ボクサーに合気道で立ち会うとか、フランス料理に玄米粗食の味を向き合わせるとか。今回の大会でなにより大きな収穫は「世界」にたいするコンプレックスを払拭したことにあるだろう。やればできると思うのとやっても厳しいと思うのとでは全然ちがう。これから8年くらいは非常に大きな飛躍が日本のサッカーにあると思う。つまらない試合や手を抜いたプレーというのが許されないような環境ができあがってくることを期待する。ありがとう。
毎日見る郵便局の前のグラウンドで小学生たちが日が落ちてもサッカーの練習をしていた光景が今日ほど美しいと思ったことはない。
人から感動をもらうのもありがたいが、やはり自分が感動を与える側に立ちたいと思う。贈与の中身と送り先について、つねに考えたい。
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2010.06.29
決壊して

マツチつかぬ夕風の涼しさに話す 尾崎放哉
朝めざめたら、枕が破れていて中のビーズが周辺に思いきり散らばっていた。
fukashi氏の枕の高さは人より高いと思うが、頭の位置が低くなりすぎていることに不快感を覚えてめざめたらこの有様だった。
中にビーズが入っている系統の枕は自在に枕の高さが変えられるので好きだけど、いつのまにか綻びができてこんな惨事になってしまったのだろうか。
でも現象の危機というのは決壊してのちに初めてわかるようになっている。
決壊の過程において気づくのはなかなか難しい。
すべてが起こってしまった後でその現象の重みを初めて理解できるようになる。
そういったものが次々と団子の串刺しのように訪れる。
決壊後の廃墟(それもひとつではない)にたたずむ術を身につけたい。
2010.06.28
あなたによって夢見られたこと

今昔物語集には珠玉のストーリーがたくさんあるのだけど、ある夢についての物語がある。
ある人が夢を見た。
明日のお昼時に観音様が温泉に入られると言う。
しかもその年齢や容姿なども夢の中で詳しく告げられた。
その人は夢の内容を村々の人たちに話して回った。
村の人たちはおもしろ半分で湯のところで待っていると、
まさに夢のとおりに言われた時間に言われた姿の男がやってきた。
そこで皆驚愕し、ありがたがって礼拝するが、本人はなんのことやら分からない。
皆ぞろぞろと男の後ろをついてまわり拝む。
男は困り果て、どうして皆が自分を拝むのか尋ねると、そこにいた僧が元となった夢の話を説明した。
それを聴いた男は、それなら私は観音なのだろうと言い、そこで出家をする。
そしてその後比叡山に行き高僧の弟子となった。
そののち土佐をまわり、その後の消息を知る者はいない。
巻十九第十一話(fukashi訳)
いろんな解釈が成り立つだろうが、他者の夢をそのまま受け入れる男の世界観がすばらしい。通常?この物語は笑い話として流通しているようだが、みずからの宿命を他者の夢に見出すという受容の仕方は興味深い。自身の夢を受け入れるという一段を越えて、他者の夢さえも受け入れている。もしかしたら、自分の夢も他者の夢も同じみたいな融通性があったのかもしれない。そういえば夢というのは、つねになにか境界をトランスするものであるかのように働いている気がしてならない。
fukashi氏は10年以上も前に初めて会った女性からいきなり「あなたは~ですね」と言われて、その言葉がいまだにリフレインされて、影響を受け続けている。具体的なことは書かないけど、上記の夢のように自分を他者から同定されるというのは暗示というか魔力そのものだ。他者によってでしか自分というものを同定できないからだろう。
2010.06.27
墓のような

雲が凄い一日だった。
雲だけが目立っていた。
幼なじみに偶然道ですれ違う。
実家の前に住んでいる小学校はいつも遊んでいた幼なじみ。
一言二言しゃべっただけだったが、
なにかが大きく変わり、いやなにも変わっていない、、の間を記憶が走狗して混乱する。
存在することの重みをただ受け止めていた。
なぜか墓を思い起こした。
死んだがゆえに永遠に生きてしまっている死者を静かにつなぎとめる墓。
生ける屍としての記憶と現在。
懐かしさには寂しさとか哀しさとかが混じっている。
でもそれにかろうじて支えられてもいる。
一番心静かになれる場所は昔から墓場だったのは、葬り去られない過去に敬意を払えるモニュメントだからだろうか。でもなんのための記念碑なのだろうか、それは。
2010.06.26
相似形

上祐が誰かに似ているとずっと思っていた。
15年くらいずっと、喉まで出かかっているのに出てこない。
イメージとか空気感とかはつかんでいるのに、名前が出てこない。
あきらめたり、またふと湧き出しては考えたり。
村上春樹の『アンダーグランウンド』を再読しているときに、またこのもやもやが噴出してきたのだが、なぜか会社の階段を昇っているときに不意にイメージが結ばれた。
中学三年のときの担任の教師Oだった。
もうそうなったら上祐と教師Oは双子のように瓜二つのものとなってしまった。
顔相というか顔の骨格と声質、しゃべり方は密接に関係あると気づいた。
両者は声質、しゃべり方(口の動かし方)も瓜二つだった。
似ているついでに書くと、このブログのテンプレートは割と好評なのだけど、
トップに写っている後ろ姿の人間は、fukashi氏の後ろ姿にそっくりである。
はじめ見たときはギョッとした。
この映画的なショットと自分との相似に縁を感じてこのテンプレートに途中から変えたのである。制作者に感謝である。
自分がインターネットを通して他者として立ち現れていく。
いや他者がインターネットを通して自分として立ち現れていくというのが正しい。
懐かしい未来のような感触。
海の彼方から客人が訪れてくる。
それが近づいてくるのをじっと見ていたら、自分だった。
2010.06.25
誕生の瞬間に立ち会う

昨夜の寝入りばなに3という数字が浮かんだ。
サッカーの試合の得点数だとすぐに直感した。
日本の得点数かデンマークか一瞬わからなかったけど、日本のものだと信じる事にして寝た。
3時過ぎに起きて観戦する。
日本の得点であってよかった。
早起きは気持ちよかった。
人がただ11人集まればチームというのものができ上がるわけではない。
結婚すればそれで夫婦になるわけではなく、子として生まれてもそれで親子あるいは家族になるわけではないのと同じように。サッカー日本代表はそういう意味で「チーム」になった、「チーム」として誕生することできた。そういう生成のただなかにあらゆる組織、パートナー、家族でも会社でもそして個人もなまものとして生きている。フランスやイタリアはそのような意味でまさにチームになることができなかった。あるいはなっても既に遅かった。イングランドは間に合ったのかもしれない。
重要なのは岡田監督が賭けた布陣が真理であったから初戦のカメルーンに勝てたというわけではなく、勝ったからそれが真理となり「チーム」が誕生したという事後性と投機(投企)性だ。それほど初戦を勝つということは決定的なのだったと事後的にfukashi氏もとらえる。
個人についても、私というのはただ生きているから私であるというわけではなく、まして探していく対象でもなく、私になる、私を誕生させるための強い投企が必要である。ニーチェが自分自身に出会えとか、自分の中の英雄を放棄するなとか言うのはそういうことなのではないか。
「大丈夫だ。まだ君は君のことを一番よく知っている人間じゃないか」ジャン・ジュネ
2010.06.24
ゆるし

梅雨の湿度の高さのせいか、背中とか首とかに違和感がある。
会社のコピー用紙が湿気を吸って、ふにゃふにゃになっている。
ふにゃふにゃの紙を見ると仕事への意欲が下がる。
会社の近くに合気道の道場があるのを発見した。
合気道は子どものころから強く惹かれ、やってみたいと思わせ、ついぞやっていない武道なのだった。
襲ってくる相手を倒したり殺したりするのではなく、相手の力を利用し攻撃を外し抑え、相手にその攻撃、その憎悪の無用さを悟らせるゆるしの武道としての合気道。
こういうフレーズで紹介されるとしびれてしまう。
ゆるしの武道。
2010.06.23
アシナガ

アシナガバチが部屋の中にはいってきた。
野外で飛んでいるのを見るのと、自分の見慣れた部屋の中を飛んでいるのを見るのはずいぶん感じが違う。部屋の白い壁がアシナガバチの野性味を際立たせていく。飛んでいるところをじっと見る。アシナガバチはほんとに足が長い。その邪魔そうなほどの足がちょこんと下に垂れて飛んでいるのがなんともかわいらしいと思った。棚で休んだりしながら、しばらくすると窓から外に出て行った。
ふと思い出したのだけど、募金とかってあるけど、募金箱の前で絶叫されると非常に募金しにくい。アピールも重要だけど、募金はそっとしたいので、募金活動は穏やかにしてくれると嬉しい。
2010.06.22
解散、解放

じぶんの背中にあせもらしきものができていた。
じぶんの背中の全体を見渡すことの困難性。
でもその背中がその人物のすべてを語り始めることも。
あるダンサーは弟子に背中が踊っていないと注意していた。
昨日、組織について書いた。
宗教組織だけに限らず、あらゆる組織には賞味期限があるのだと思う。
でも賞味期限を過ぎたら、じゃあすぐに解散できるのかと言えば、これはたいへん難しい。賞味期限が過ぎても、過ぎたとは判断できないだろう。とくに熱狂のうちにあるものは。
映画の撮影編隊はとてもすばらしいと思ったことがある。
クランクインしてともに格闘し、アップしたら自動的に解散する(せざるをえない)。
こんなすばらしい組織のありようがあるのかと驚いた。
はじめは一緒の船に乗って、途中で三々五々別れていくのだ。
サッカーの代表もそうかもしれない。
国を代表しているとはいえ、みな仮の住まいだ。
敗れれば解散し、もう同じチームでピッチに立つことはないだろう。
留まれば、淀み、腐敗が始まる。
組織は長く続けば続くほど、個々人のアイデンティティに深く根ざすようになる。強制的な解散は憎悪さえ生むだろう。たとえ犯罪を犯した組織であっても名前を変え代表を変えても残存しようとするだろうし、問題の解決のために集まった組織も解決のときが解散かと言えば、また別の問題を探し出そうとするに違いない。 死者が出れば生きている者はその死者のために解散はできないだろう。
敗北ではない晴れやかな解散の例は、クリシュナムルティの星の教団、甲野善紀氏の武術稽古研究会の解散とか、YMOとか。。
これから家族を解散すると言った、芸人麒麟の田村の父さんも思い出した。
解散とはかくも積極的なものなのだ。
2010.06.21
解散が正しい

鏡を見たら髪が短くなっているのに一瞬おどろいた。
髪を切ったことを忘れていた。
鏡がなければわからないことだらけ。
「自分」というものは、そういったものに支えられているにすぎない。
わからない不安から解放されたい。
わからないままでも案外大丈夫なのだと思う。
インドの文化に触れる集まりみたいなものに参加した。
インドのヨーガや思想などに多いに惹かれるものがあるが、
インド人のような格好をしている日本人やその集団を見ると異様に冷めてしまう。
この違和感、拒絶感に我ながら驚いた。
自然農法や循環思想など語られること実践されていることは間違ってはいないのに、
こういう組織性のなかで語られると、引いてしまう。
fukashi氏はインドの思想家クリシュナムルティを偏愛している。
クリシュナムルティは1929年に自身の率いる教団を解散している。
以下彼の言葉。
「宗教組織や組織的な活動によって真理に到達することは不可能である。自分は追随者は望まない。永遠を見つめ、真に生き、何の束縛も受けない自由な人間がいてくれれば充分である」
「真理はそこへ至る道のない土地である(Truth is pathless land)」
自分自身のなかにも解散すべきものが多く見受けられる。
自由な人間。
ひとつひとつ解散していく。
組織というのは力ではあっても、真理からは遠ざかるものなのだ。