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蛍光


友人宅の近くには池があって、蛍の明滅が見られた。
写真には写せなかったが。
20匹くらいだったろうか。
昔は1000匹は軽くいたらしい。

それにしても蛍の光は人工の光に似ている。ぎょっとするほど。
光というものの形式はヴァリエーションとしては少ないのかもしれない。
それでも途方もなく美しい。
つかまえて、手のひらの上で明滅して、手からこぼれてズボンへと落ちていって、飛んで消えていく、このはかなさ繊細さは、人を自省へと向かわせる。

朧とか夢幻とか蜃気楼とかに人は強く惹き付けられるのはなぜだろう。
おぼろげゆえのリアルさというものがそこにはあるはずで、逆にここを迂回しないと、見ようとするものが見えないのだと思う。映画とか文学のリアルさというのはまさにこういうことなのだと思う。



朝、車を運転していて、いつもの空気とは違うものを周囲に感じる。
空気がざわざわしてるのが感じられたので、いつもとは違う道で行く事にする。
どうやら事故起こっていたらしい。

視覚的にその事故を見て異常を認識したわけではなくて、なんとなくだった。

でもこういう異常さに感ずくセンサーはとても鈍っているのかもしれない。
これが少しでも遅かったりすれば、災難に巻き込まれる。

身体を開いていくセンサーの鍛えは学校の体育などではやらない。
必要ないからか。

サッカーはある意味事故だらけのゲーム。
信じ難いほどにボールが足元に転がってくることもあれば、
バーに弾かれることもある。

嗅覚とか呼ばれるもの。


右に行けば死んでしまう。
その気配を感じ取れるだろうか。

すべてアドリブだ。
どういうふうに生き残っていくか。
もちろん勝ち組とか経済的なことではなくて。

心身が充実し、センサーが十全に世界にたいして開かれれば、
安心して生きられるのではないのかという思いがずっとある。
気が病めば、身体を動かしてその状況を打開しようと考える習性がある。


今日は蒸し暑かった。
日本の夏ってこれだよな、と思い出した。
遠藤さんが着古した作業着ズボンを履いたら、トランクスが透けていた。
フグの刺身みたいに限界ぎりぎりまで薄い着古したズボンというものを初めて見た。
薄っぺらいと言うとムッとしていた。


仕事が唐突に佳境に入ったため、少しだけブログを休みます。


road01


今日は晴れた。
もう夏の気配がそこかしこに溢れていた。
夏を直感させてくれるものは、車中の灼熱とむせるような青草の匂い。


最近人に後光が差しているのが見えるようになった。
fukashi氏にそのような超能力が備わったということではないのだけど、
どう言えばいいのだろうか、視覚的に見えるというよりも、
そういうモードというか、そういうのが表現されているというか、
うーん、うまく言えない。

どういう人に後光が差しているかというと、
半端なくシンドいのだけど、
前を向いているというか、
前を向いて耐えているというか、
それも孤独の淵で。
そういう人には後光が差しているのが見えるというか、わかる。

岡田監督がカメルーン戦の試合でベンチの前に立って腕組みをしている映像で、後光が射しているのがわかった。

あんま神秘的な話をしても、深淵を覗き込むだけになってしまうのだけど、
上記のような感覚には開いていたいと思う。

こういう感覚世界の話も書いていきたい。


サッカーの影響なのか、本来車の交通量の多い道路に全く車がないときがあって、人類が滅亡したような錯覚を覚える。fukashi氏が人間ぎらいなのだろうか、その風景はとても清潔な感じがした。とにかくそれは清潔な風景で、「人ゴミ」という言葉の表現の的確さに気づかされた。


写真を整理していたら、少しゆるめのカーブのかかった道に魅かれるらしく多くの道の写真が見られた。
僕の後ろに道はできる的な象徴的な意味をもたせるつもりはまったくないけど、これからアップしていこうと思う。今日は載せないけど。

そのどれもが不思議と人を避けていた。

道はストレイトでは面白くない。
何かに従って、湾曲し、屈折し、交錯氏し、突然消失する。

ブログの終わり方とか、人生の終わり方、映画の終わり方を考える。
終わりは始まりよりも重要であることは間違いない。
いつかは終わりが来る。
早いも遅いもない。
ありがとう。

先行きが見通せる道で遭難をしても、それは輝かしいことだ。


日が暮れるまえ、帰って玄関から入るときに雀たちがちゅんちゅん騒いでいた。
朝の雀の声は爽快だが、夕方はちと寂しい響きがあるなあ。


アルバムから気に入った曲だけを抜き出して自分のベストアルバムをつくっても以外につまらないというようなことを以前に書いた。

サッカーの試合を90分間見るのと、ダイジェストでいい場面だけ見る体験は全然違うのとそれは似ている。

サッカーのはらわたは、退屈なパスまわしやボールがピッチの外に出たり、キーパーがゴールキックを蹴るために後ろに下がって助走をつけたりとか、そういった生地のうえにある。こういうのを全部まるごと飲み込まないと面白くない。まあスタジアムで観ることが一番肝要なのだろうけど。

梅雨にはいる。
年々、梅雨の深度に気づくようになっている。
薄暗く、肌寒かったり、深めの水たまりができて、アジサイがいつの間にいて。

2010.06.12 ピッチの上
W杯で他国の試合を見ていると、日本とはすべてにおいてクオリティが違って、こういう事実に真剣に青ざめる体験を選手や協会、監督、サポーター、ジャーナリズムつまり日本のサッカーが強くなってほしいと思う人は味わう必要がある。


それにしても試合中の夕日の光線とか、高速スローモーションや俯瞰のショットなど、デジタル放送で再現される世界は異様に近いリアリティがあって、試合そのものの面白さとともに世界の共時性の快楽を見出してしまう。


それにしてもサッカーはなぜこうも人をヒステリックにさせるのか。
女神よりも死神をピッチの上に見てしまう。神経症的な。
卓球やバスケでは代理戦争はできない。


「すごいプレーを見て気が狂いたい」

蓮實重彦氏の言葉だったかな。
これに尽きるよ。


2010.06.11 上書きせず
紅雲


梅雨入り前の最後の天晴。
窓から入ってくる風が涼しいと感じたから、暑さを覚えていたのだろう。
女性社員が何度も油とり紙を使っていた。



男は別名で保存。
女は上書き保存。

これは過去の恋人にたいする男女の対応の取り方の差異だ。
対応というか心もちだ。

一緒に撮った写真は捨てる。
相手の写真も捨てる。
では相手が撮った自分の写真や相手の撮った風景の写真はどうするか。
つまり相手の視線というか相手の見た世界というか。
そこに自分自身が写る屈折。


家に帰ったら、部屋がむんむんして思わずクーラーをつけようかと思ったが、
換気扇でなんとか凌いだ。


ゴーギャンの絵画の長いタイトルを思い出した夜。
われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか


黒沢清監督の「トウキョウソナタ」の小泉今日子はすばらしい、というか怪演だろう。
過去の厚みとか日常の主婦の重みを身体の中にはっきりと織り込んでいる怖さがある。
凄い前に見た映画を少しだけ、言葉にしてみる。


AKBのひとたちの顔が少しだけわかるようになった。
若い人たちの顔の区別がつきにくくなる現象はやばいことなんじゃないのかと思った。
fukashi氏の通った哲学科の教授たちはみな、若い学生の顔と名前を瞬時に覚えることに長けていた。
そういう世界との接する面の開き方は参考になるだろう。


残光


みんな帰ってしまったオフィスはがらんとしていたけど、
そこにはどこか聖なるような尊いものが漂っているような気がした。

そこにはただ淡々と、夕陽が差し込んでいた。
浄められているような感じさえした。

光は波のように押し寄せている、と思った。
一定のように見えるけど、つまり力に強弱があるというか。

20代の頃は、皆が帰ったら自分も帰りたくなって、
なぜか下半身がむずむずしたのだけど、
いまは自分の仕事をきっちりやって帰りたいと思うようになった。

そういう自分になれたのは全部エンドウさんという上司のおかげだ。

人がなにかから学ぶというのは、理屈よりも間違いなく感化からの方が大きいよな。

染み込み方が違うというか。

まあ単に会社人間として馴致されていると言われればそれまでだが、

仕事というのは全部自分のためだということが最近やっとわかるようになってきた。

仕事だけではなくて、すべての自分の諸行は、すべて自分に返ってくる。

お金とかそういうことではなくて、ストレートに言えば成長というか、修行というか。

だから通常言われるような、真面目に働こうとか、努力は大切だ

とかいうところの出発点とは違う。

突然、炎のごとく、ひとはどこかに辿り着く。

たとえば外国語が自分のものになる時って、突然、炎のごとくだと思うよ。

ポール・オースターの『ムーンパレス』にはたしか「物語には続きがあるんだぞ」というフレーズが何度か出てくる。人生には、だったかもしれないが。いまはどちらでもいい。

終わりの早い映画や小説が散見される。
たとえばなにか事件が起きて、それが解決される。そして終わる。
でも本当に描かれるべきは、解決された後の後ではなかろうかと。

ずううっと、続きを生きるために僕は生きていると思った。
続きが知りたいというか。

その人間のそばにいると、その人の生き様みたいなものが、
理屈ではない方法で、まさに突然、炎のごとくに自分の中に入ってくる。

そのときもう世界の風景ははべつのものになっている。

オフィスに漂う塵が夕陽に当たって、きらきらと黄金の粉のように舞っていて、
そんなことを考えた。



しましま


光線はどこにも例外なく強烈に当たって、全ての事物を鮮明にしていった。
新緑の淡かった緑たちもいつの間にか濃く深い色のものになっていた。
すこし悲しくもなった。
切なすぎるほどの快晴。



昔ドラゴンクエストをやっていたら(あれは2か3)途中でバグって(死語?)しまって、すべての吹き出しの文章の末尾に「らしい」がつくようになってしまった。

「勇者はスライムを攻撃したらしい」とか「魔法使いは死んだらしい」とか「はぐれメタルは逃げたらしい」とか。こういうことに小学生のfukashi氏は笑い転げていた。
 
らしいがつくと、すべてが締まらなく、不確定な言辞が不確定な世界を生み出し、どこで真剣になっていいのか、戸惑う。なにごとも決定されない世界。カフカのような。
 

昔批評の勉強をしていた時に、尊敬するある講師がまず最初に断言することが重要だというようなことを言っていた。たとえば、ゴダールは20世紀の記憶である、とかこの女優は私のことだ、とか。

決めるということは、その世界をフェアに引き受けることなのだと、批評とはなにかをこき下ろしたりすることではないんだということを漠然と感じた。




らしい、という言葉をほとんど使わなくなった。それもかなり意識的に。

でも風の噂を表現するのに、らしいは便利だ。

自分の中の勇者は死んだらしい、とは思いたくない。

死んでないらしい、と呟きたい。

風の噂として囁かれた、自分の救いの調べを聴く。


イシ


詩は舞踏で散文は歩行だという。
いいことを聞いた。

fukashi氏はつくづく歩行の人間だと思う。

空海という名前が空と海だということに改めて気づいて改めて驚愕してしまう。

スピーカーをセットしていたら、切り裂くようなマイクのハウリングの音がしてみな驚く。
ハウリングはいつも、ずっと見ていたい人生の夢を瞬間冷めさせる。
すこし絶望に似ている。

端っこが気になる。地が気になるというべきか。
テレビでリポートとかしていても、その周囲の音とか背景とか、
写真でも端っこの方とか、
このまえ中村俊輔先取が無回転フリーキックの実験をしている時の高速撮影は、
フリーキックよりもなによりも背景のビルディングが素晴らしくて息を飲んだ。
夢の世界に似たリアリティ。

私を私たらしめている諸条件のひとつの風景の感じにそれはとっても近かった。