2010.05.29
唯一の場所

この前、ニラ豚炒めで行列のできる中華料理店に行ってその味にいたく感動し、自分でもうまくできないだろうかと悶々と思案しているうちに、偶然別の方面から大量のニラをいただき、そのお店の味に近づくべく試行錯誤する。
味は近づいたのだけど、なにかが決定的に違うと思った。
それはこのニラ豚炒めで重要なのはニラではなくキャベツなんだということに気づいた。
キャベツを炒めすぎると全体に緊張感がなくなる。
でも中華料理屋ほどの火力は出ないものだから、これが難しい。
ニラは大好きだが異様に歯にはさまる。そして取れづらい。
ラカン理論はおそらく啓蒙主義の、最も根源的な現代的ヴァージョンである。ジジェク
われわれがこの<現実界>の固い核に接近できる唯一の場所は夢である。ジジェク
今日会社での行事とか飲み会などのイベントを撮影した写真を編集していて、遠藤さんとかみな無心に活動しているさまを写真を通して見ていたら、妙に熱いものが込み上げてきて、この人たちもやがては死ぬんだとかいった無常観に支配されて、でもそれはネガティブなものじゃなくて、よろこびに満ちた無常というか、そんな強烈な意識が瞬間fukashiさんを貫いて、わけもなくみんなずっと幸せであってほしいなと願わずにはいられなかったそんな土曜日。
2010.05.28
それにそっと近づいて

fukashiさんはこのブログでかつて書いた記事にはあんまり関心がなく、したがって何をかつて書いたのか忘れていることが多い。でも読んでくれている方々は非常によく記事の内容を覚えていることに驚かされる。そういえばfukashiさんも他人の書いたブログはよく覚えている。そういうものなのかもしれない。(たとえ書かれる記事に重複があってもそれはfukashiさんのなかでリフレインしている重要なテーマなのだろうから、スルーしてくださいませ)
あれは凄い怖かった。
高校の頃、定年前の保健体育教師の爺ちゃんが講義のとき、同じ内容の説明を3回もしていて、でもそれは大事だよという意味での重複ではなくて、あきらかに前に話した事を忘れていて喋っている感じで、まあつまりボケているわけだが、人がボケた瞬間に立ちあったことの恐怖なのか、人間が機械的に同じ事を話すのが恐怖なのかよくわからないが、とにかく怖かった。みんな居眠りしていて、そのことに気づいていたのがfukashiさんだけだったことが怖かったのかもしれない。
記憶や過去の出来事に一番関心があって、
それはfukashiさん個人の記憶から、もっと歴史とか呼ばれるような大きな記憶まで含めて、記憶の秘密に触れたいと考えている。大学の卒論も記憶について書いたが、記憶について「よくわかった」と思えたのが大きな罠だった。論文という形式では近づけない!
たとえばYouTubeなんかで自分が子どもの頃の1980年代のテレビとかを見ると、ぐーとなにか引き込まれるというかあの時代の匂い(いまでは微塵もない)明るくアホでいられたようなあの時代の空気感を思い出すと、なんとも今が息苦しく切ない、いや悲しくさえもある時代だとつくづく思う。こういう記憶の層をどのように処理していいのかわからない。
はっきり線が引けるのは1995年である。
fukashiさんが田舎から上京した年でもあり、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件で記憶される年でもある。
ブログという形式で、なんとか記憶とか過去の「それ」に肉迫したいな。
つねに過去でしかない写真もおおいに使えるだろうし。
やっと過去のfukashiさんが投げた瓶が他者たる自己として、fukashiさんの足元に届いてきている。
あれはああいうことだったんだって。
こういうところで、なんとか過去を肯定して、ありあまる富に気づいていきたい。
2010.05.27
放たれた瓶が爆発するまで

うすら寒いというより、はっきりと寒かった。
ここ半年くらいはずっと仕事が忙しかったので、ブログの記事が書き殴りに近い突発的なものになっていて、深いところまで届いているのか疑問に思う。最近は仕事も落ち着いてきて、ぽつぽつと頭の中に空白というか遊びの余白の部分が出てきて、もっとマシなものを書けるんじゃないのかと思えるようになった。無駄な思考とか遠回りが書くことを面白くする。かといって力む必要はないが。
戦前の教科書が古民家の倉庫から出てきた。
ドイツの国旗が鉤十字だった。
ちなみに出版社は凸版印刷。
かなり保存状態はよかった。
ここは戦前の教科書だけでなく、戦前の雑誌とか本とかが平気で捨て置かれていた。
なかにはかなり価値のあるものもあっただろう。
fukashiさんに読まれ、こうしてブログにアップされるのをそれは待っていた。
あれは凄く怖かった。
遭難者が自分の居場所を知らせるために、テープレコーダーに「たーすーけーてーくーれー」と叫んで録音してたり、白樺の枝でHELPという文字を作っていた。もう既にその遭難者は絶命しているのにその録音された声が数年後にわれわれに届く。テレビで放映される。遅れたけど、届いた。のと結局届かなかったの差は大きい。
ブログはなにかに似ていると思っていたら、投瓶通信だと思った。風船通信でもいい。
誰に届くかはわからない。自分が死んだあとにやっと届くかもしれない。届いても誤読されるかもしれない。東浩紀氏は届いてくれることを「祈り」と呼んでいたような。ブログはfukashiさんの祈りかもしれない。だがなんの祈りなのだろうか。なにを果たそうとしているのだろうか。それはすごい破廉恥かもしれない。でも祈らずにはいられない。
書かれたものが入った瓶を海に放つこと
川とか湖じゃなくて海
海とか魚とか藻屑とか、どこかの浜へ行くのか
また自分の足元に戻ってきても
また海へ放り投げる
みんなも遭難して 漂流しているのだろうか
爆発した
外に出たら風が強くて。さらに寒くなっていました。
2010.05.26
睡睡

新緑の緑に酔うているのか
気圧のせいか
とにかく眠い
夜の8時くらいでもう眠い
記事にしたいことは山ほどあるのに
眠くてまとまらない
とくべつ疲れているわけではないのだが
眠くて仕方がない
風がここ二、三日激しく
気圧が安定しない日は
心身も安定しない
1年前の日記になぜか田原総一郎のことばがメモられていた
「なにごとも自分の目で見て、自分の耳で聞いて納得しなければ、この世は生きていけない」
2010.05.25
酒の名前

三百年以上の歴史のある老舗酒蔵。
凛とした看板の気配と清酒久寿玉の辛口の味わいが重なる。
(以前アップしたような気がしなくなくもない。単なるデジャヴュか)
日本酒の名前には趣のあるものが多い。
この久寿玉もそうだし、初孫、篝火、真澄、くどき上手、十四代、黄桜、小鼓、白鹿、美少年、一人娘などなど。
身体は風邪を経過したものの鼻汁だけはしつこい。
高熱が出た時に、その熱が体についている匂いを強く蒸散させることに気づいた。
香水を頸動脈とかの身体の熱い箇所に吹き付けるのと同じ原理が働いている。
39度とかになると、かなりその作用は強烈なものに違いない。
高熱の中、お客さんと机をはさんで話をしていた。
彼からはぷんぷんと石けんの匂いがしてきて、fukashiさんは心中ひそかにこの人はソープランドにでも行ったのだろうかと思っていた。
でも彼が帰ってからもその石けんの匂いがすることに気づき、それはfukashiさんの胸元からYシャツの襟元へ上へと匂い漂っていることがわかった。
そういう匂いは向こうからやって来るものだと思い込んでいた。
2010.05.24
たましいに良いもの

月曜の朝はFMラジオを聴く
精神の調子をととのえる
笑瓶のクラシックを紹介する番組がたましいによい
ぼそぼそとした低い声が
月曜の朝を穏やかなものにしてくれる
ゆるいつっこみが月曜日にはありがたい
今日もはりきって行きましょう的な活気は必要ない
尾崎放哉全句集を毎日読んでいる。
つかれたたましいにやさしいことに気づく。
尾崎が没にした句ほど好きなのだった。
思いついたら何度も紹介していこう。
竹切る音の人が顔を見せない
そろはぬ火ばしの儘で六月になつた
蟻にたばこの煙りをふきつける
2010.05.23
内側に降る雨

深夜のはげしい雨
部屋の中の空気が淀んで耐えられず外に出る
田舎の夜はちゃんと暗い
視覚よりも匂いや音のほうで世界がつくられていた
それがとても居心地がよかった
驟雨
漫画のカムイ伝で覚えた雨の種類
南の島に旅したとき
遠くの海のある特定のエリアだけに
雨が降っているのが見えた
人間のいないところでも
人知れず雨が降っていることに
口がぽかんとなった
今日は驟雨で立ち往生して困っていたおばあちゃんに傘をさしてあげた。
いいことをしたら、それは貯金されるような気がした。
まずいことをしたら良心は削られる。
死ぬときにそのへんのプラスマイナスが勘定される。
プラスが上回ればマイナスは帳消しにされる?そんなことないか。
人の役に立つ事が無性にしたい。困っている人とか飢えている人とか。
人じゃなくても困っている木とか山とか海でもいい。
でも顔の見える名前もある、身近な会社の人とか肉親とか友人にたいしてはそれが難しかったりする。
抽象的な「世界で飢えている人」とか「平和」とかにばかり目が向いているfukashiさんは浅い。
人を一人育てたり、幸せにすることの方が血だらけになる。
社会運動に身を投じて家庭はぼろぼろという人もいる。
(まあそもそも社会運動と家庭環境は無関係だと思うが)
でもじゃあ前者は不要かといえばそうでもなかろう。
どちらも見紛うことない現実だし。
見えるものと見えないもの。
世界のバランスは完璧な調和というよりも、つねに均衡を失いかけている状態と元に戻ろうとする涙ぐましい努力がなんとかせめぎあっている動的な緊張のありさまのことだ。高層ビルとビルを綱渡りするみたいな命がけの。
驟雨の深夜に黒沢清の映画「トウキョウソナタ」を見て、そんなこと、考えました。
2010.05.22
根茎は倫理的
ブログを通して知り合ったブロガーの方から看板シリーズ、宮崎駿シリーズ、木とかえんどうさんシリーズを楽しみにしているという嬉しいコメントをいただく。
そうだった。
ブログを始めようとしていた当初のイメージは、複数(それもかなり多い)のシリーズが(強弱がありながらも)同時並行的に進んで(でもカテゴライズすることなく)、それらが時にはクロスしたり、突然消滅したり、また思いもしないところから生成したりといった、根茎的なモデルを抱いていて、関心が雑多に広がるfukashiさんにとってはそれがぴったりの形式だと思っていた。それをちょっと半分忘れていた。この方法がどのくらい有効なのか、また実践できるものなのかはわからないが意識して進めよう。
(いい感じの根茎の写真を撮ったことがあるのだが、見つからず、掲載できず。)
そうだった。
ブログを始めようとしていた当初のイメージは、複数(それもかなり多い)のシリーズが(強弱がありながらも)同時並行的に進んで(でもカテゴライズすることなく)、それらが時にはクロスしたり、突然消滅したり、また思いもしないところから生成したりといった、根茎的なモデルを抱いていて、関心が雑多に広がるfukashiさんにとってはそれがぴったりの形式だと思っていた。それをちょっと半分忘れていた。この方法がどのくらい有効なのか、また実践できるものなのかはわからないが意識して進めよう。
(いい感じの根茎の写真を撮ったことがあるのだが、見つからず、掲載できず。)