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2010.04.29 昭和の日
10代の人たちはあたりまえだが平成うまれ。
会社の新人さんたちも平成3年うまれ。
自分の10代の頃となにがどう違うのかわからない。
ただ話していて誰と誰が知り合いとか友だちとかそういうネットワークの関係はすごい進んでいるように感じた。だからかえってそういうネットワークの蚊帳の外にいる人はけっこうしんどいのかな、とも。
関係ないが、呑んだ後の博多ラーメンのうまさにあらためて気づいた夜だった。



書店をぶらぶら。

「リア充」という言葉が目につく。
現実世界(リアル)での社交や恋愛、仕事が充実していることを指す。ネット世界の充実(?)している人が嫉妬感を混じえて使っているようだ。

それは逆に考えれば、ネットの世界というものが現実世界の質感や量感を凌駕するほどのものをもっているということだろう。それは単に便利とか早いとかとは違う、精神の在り方に直接関わるような、深さを有しているということだ。

それがいいことなのかどうかわからない。現にそうだと追認するしかないのだが。

現代的テーマでもあろう孤独とか不安とか、他者理解といったことが、現実世界よりはるかに簡単にスムーズに解きほぐされたり柔らかなものになっていっているような気もしないでもない。

現実世界での息も止まってしまうかのようなコミュニケーションの困難さにくらべると、ネット世界の懐は相当深い。漫画のセリフの吹き出し、心中を表現するあの丸のついた吹き出しのことば、外に出せないから、内に語られるあのことばたちがネットでは解放されている。

そしてそれを自分が表に出すのも、他人の心中、頭の中をのぞくのもとても楽しい。危険なくらいに。

でもぼくはやはり現実が優位であるように生きていきたいと思う。
このブログも現実でのおもしろしさ、豊かさを前提に書いているつもり。
でも油断すると反転して現実を豊かにする支えとしてネットがあったりもすることに気づく。
生の条件というものが急速に変化している。それを革命と呼ぶ。

なにかの奴隷になる革命なら、御免被る。


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2010.04.27 路傍
森のことば


無類の節好きだったりする。
木の節は枝のあった幹の場所でもある。そこが節になる。
節(死に節)は脆い箇所なので木工家などには嫌われるけど、節そのものやその周辺の木目の渦具合など偏愛してしまう。


午前中、すさまじい豪雨。
運転していたら視界の端に道路で死んでいるねこが見えた。
死んでも生きている時と同じように毛が濡れて束になって逆立っているのが一瞬見えた。


宮崎駿の思考過程3。引用

「怒られたら、次は30cm近寄るくらいでやれ」

「映画の肌合いはまだ、おれの頭の中だけにある」

「均質な時間が流れているわけではない」

「動いているから納得できている」

「休日に働くとトクする気分になる」

「昨日やったことは全部捨てることにしました」

ジブリは130人くらいのスタッフが動いている。
でもその総指揮官たる宮崎駿も映画の全貌がつかめていなくて、そんな「どうなるかわからない」状況をスタッフ全員で共有しながら制作が進んでいる環境って、ほんと贅沢というか絶大な権力だと思う。普通嫌われてしまって信頼関係が失われる。

創作


創作料理屋というからには、看板もそれなりに趣向のあるものでありたい。
木目のゆらぎも眩しいものがあるが、樹皮もまた味わい深いものがある。

うちの会社の関係の人で九州で1位、2位を争うほどのトップセールスマンの人がいて、その人がある会社を飛び出て、一人で営業をするようになったのでが、うまく成果をあげられずに苦しんでいる。

その人が以前の会社において優秀な業績があげられたのは、その人のスキルや努力があってのことだが、また同時に彼を裏で支えた部隊、組織力が背景にあってのことで、自身の成績に溺れて増長した彼はそれを全部じぶんの力だと思い込んでしまった。会社を飛び出たことで過信は見事に打ち砕かれたわけだが、自分の高い自意識、プライドだけは譲歩することができずに、現況を周囲のせいにしようしている。そしてただひたすら過去の自慢話をしてなんとか苦い現実を甘いものにしようとしている。

(まあもちろんかれをここで笑い者にするつもりで書いているわけではないが)自分がどのように周囲と密接につながって「今」があるかを認識することは難しく、すべて自分の力でここまできたと思ってしまう。とくに有能と言われている人ほど。大成功した人ほど。

知人が道ばたで偶然何十年ぶりかの友人を見かけていた。
でもその知人はその友人に声をかけるかどうか逡巡していて、それを端で見ていた僕はなんか美しいものを見た気がした。

女の人をおそっている夢を初めて見た。自分が加害者になっていることへの恐怖にも似た後悔とともにある抗し難い性的興奮が朝起きた時にも身体に残っていた。暴力とはなんのためにあるのだろうか。誰のためにか。夢で良かったと心底思った。

宮崎駿の言う「滲み出す」という表現。
アニメーターらしい表現で、とても重要な表現の仕方だと思う。

人の(その精神の)変化というのは、A→Bへと一足飛びに劇的に変わるという場合もあるが、AからBへとじわじわ絵の具が滲み出していくみたいに変わっていっている場合の方が多く、かつ致命的な変化となっているのではなかろうか。まあつまり、変化そのものに無自覚でありながら確実に変化してしまっているみたいな。

自分がいい方へだけ変化していると思うのは、甘すぎる思い込みだ。変化に良いも悪いもないか。

「宮崎駿の思考過程」3巻目に突入。


ジブリの鈴木プロデューサーが不機嫌になっている宮崎駿を見て一言語った。
「彼は人間にはこんなことができるんだということをアニメで見せようとしているんです」


宮崎駿の創造の射程はだれにも届かないところにある。

宮崎のただ一人であることの孤独。
固有の孤独。


すべての世界は動いているというのを見せたい。宮崎駿

2010.04.24 beginning
清課堂


京都の清課堂。金工のお店。
買う気もないのに、ずっと品物を見ていた記憶。


髪を切りにいく。
きょうは調子よく喋れた。
あたりまえだが、相手の関心の系とこっちの関心の系が少しでも重なると話は盛り上がる。

話はとぶが、あのヘッドスパ的な頭皮のマッサージとか、首や肩を揉んでもらうのとか速攻眠りそうになるくらい気持ちがよくて、あの至福の時間だけは話しかけないでほしいと思う。

どこかで鈴の音がチロチロと聴こえる。
たぶんねこが家の周りを歩いているのだろう。
今日はごごから、思いっきり晴れた。





ひきつづき「宮崎駿の思考過程」引用

「君にインタビューしてもらっているんじゃない。君に教えているんだ」

「ほんとに闇の中にいると、鼻から血の匂いがしてくる」

「戦闘状態じゃないと思いつかないアイデアがある」

「論理の塊を外したい」

「(息子の映画を見て)自分の子どもを見た。まだ大人になっていない」

「性の問題は避けられない」

「違うところに電気を通すために、散漫にしている」

「ロケハンはそのまま使うことじゃない」


大きく引き延ばされた偉大な「始まり」に立ち会っていることにやっと気づく。


2010.04.23 響きと怒り
激しい怒りの感情。
個人的な事情で怒りが沸き上がってきて、怒気で身体が包まれる。
普段温厚なせいか怒りの感情に火がつくとそのエネルギーは凄まじい。
まあかといって暴れたりするわけではないが、内で自炎しているだけだが。

朝めざめた瞬間から昨日の夜の怒りが沸いてきて抑えがたいものがある。
公憤や義憤といったことならかっこいいが、全くの私憤なもので。

怒りというのはどのようなものなのか。
悲しみとか悔しさの感情とかと極めて近接しているようにも思える。
怒りの反対は喜びなのだろうか。
でもエネルギー値だけで見るなら怒りを超えるくらいの喜びはない。
でも笑いのエネルギーなら怒りを超えるかもしれない。

蠅とかをビーカーに入れて、蠅にむかって本気で怒ったら、あっという間に蠅は死んでしまうらしい。それほど怒りには毒気が含まれているとのこと。まあ蠅にむかって本気で怒るのはなかなか難しいが。

怒りにも個々人の形式といったものがあるのだろうか。自分は怒りによって人を恨んだりはしない。ただ執着がなくなって縁が切れていくという感じだ。もうどうでもよくなっていくというか。

怒りに満ちているときにどうすれば柔らかく丸くなっていけるのか、それをずっと考えていた。
音楽はいい。とても。特に交響曲は。多層な構成が自分を織り込んでくれるようだった。
今日はマイケル・ナイマンのガタカをずっと聴いていた。

生きている者の言葉より、死んだ者の言葉のほうが身近に感じもした。
たとえば59歳で自殺したヴァージニア・ウルフとか。

「こんな混乱のなかでは何もできない。まして、寝ていた人がわざわざベッドから起きてまでも答えを求めようとした、何が、なぜ、何のために、といった人生の根本的な疑問を夜に向かって差し出すのは、ほとんど無意味なことにさえ思えよう。」

<ラムジー氏はある暗い朝、両腕を差し延べながら、廊下をよろめくように歩いていた。しかしラムジー夫人は、前の晩にいささか急に亡くなったので、その腕はただ差し延べられるばかりで、いつまでも空っぽのままだった。>


woolf



「宮崎駿の思考過程」雑感
宮崎駿が各シークエンスを色で表現しているところがあって驚いた。
宮崎駿の制作中の思考はつねに具体と抽象を激しく行き来していて、この振れていく回数がアイデアの筋肉を強くしていると思った。宮崎駿の思索を通過した後にキン肉マンを見ると、この世界のでたらめ性に生きる喜びさえ沸き起こってくる。でもきっと僕よりキン肉マンの方が正常なのだ。宮崎駿の言うように子どもは論理では生きていないし、世界にも論理はない。




2010.04.22 他者のことば
激しい雨。
傘が用をなさないくらい激しい。
どこからこんな雨を集めてこれるのだろうかというくらい激しく長く降っていた。
雨音が驚くほど大きい。

ひとの言葉を無性に引用したい夜がある。
それ以外にはなにもいらない。
自分の思考さえ余計なものに感じて。


検事は顔に子どもの息のかかるのを感じ、絶えず髪が頬に触れるので、胸が暖かくなって心が和んできた。両の手だけでなく、まるで身も心もセリョージャのジャケットのビロードの上に乗っているように和むのだった。彼は少年の黒い大きな目を覗きこんだが、そのつぶらな瞳の奥からは、母親や、妻や、かつて彼の愛したすべての人が、じっとこちらを見つめているような気がした。
チェーホフ


どうかこのレコードが自由と希望のレコードでありますように。そしてこのCDを買った中で最も忙しい人でも、どうか13分半だけ時間をつくってくれて、歌詞カードを見ながら”天使たちのシーン”を聴いてくれますように。
小沢健二


こんなにアナーキーだとは思わなかった。
とにかく破壊へのよろこびに満ちている。
やりたい放題で笑えて仕方がない。
よくよく聴いていると歌詞も危ない。

じこはおこるさ

わざわざあんなところに理容室を開いているのも感動的だ。

2010.04.21 起起起起転結
マルタ


安定さえすれば、丸太ごと置いてみることも。
量感に語らせること。木ならでは。


野ねずみのこどもがアスファルトをちょこちょこ走っているのを初めて見た。
ハムスターの半分くらいの大きさしかなくて、驚いた。こんな小さいんだ。

19歳のころの日記が出てきて思わずじっくり読んでしまう。
あまりに幼い世界観が綴られているが、途方もない未来への期待で溢れていてそれだけで生が成立していることに驚く。複雑になればなるほど駆ける力が弱くなる。この日記についてはまたじっくり考察する必要がある。コインランドリーの洗濯機に女の人のパンティが残っていて興奮したとかそんな記述ばかりだが。笑




第2巻のつづき。

「おれが一番働いてると思わない?」

「字コンテはすでに頭の中にある」

「ぼくにもわからない」

「(ポニョ来るのイメージコンテを指して)この映画の本質はあの一枚なんです。それは風呂敷には簡単に収まらないんです」

「どこかで見たかったものとくっついている」

「自前で考えるしかないんです」

「起起起起転結」

「起承転転転転転結」

「延々たる日常のなかで映画がつくられる」

「風呂敷を広げるのが楽しい」

「限定された課題とか約束事とか決まった枠で見ているのとか全部だめ」

「釣りをしているのと同じ」

「飽きた」

「まだ早いんです」

「ずっと借金している気になってしまう」

「造船所で働いている人間がどこで弁当を食べているのか考える」

宮崎駿とスタッフと話している最中につんざくような鳥の鳴き声が窓の外から唐突に聞こえてきて、その感じがとてもなんか東京っぽい空間の自然(鳥)と人との関係を思い起こさせた。



大原


京都でも好きな大原地区の案内看板。
苔生しを受け入れること。


ポストに新興宗教の勧誘チラシが入っていた。
入信して会社の業績があがったとか、母の認知症が治ったとか書かれてあった。
神様がいるのだとしたら、そんな便利屋みたいに使っていいのだろうか。

ぼくは子どもの頃、ある矛盾に悩んでいた。
試練は人を伸ばすという大人の言葉と試練を避けるための宗教を信じる大人。

まあもちろん人はなにかを信じて生きているわけだし、死んだほうがましだという状況が人生の大半を占めるとしても、自身の幸福や利益のために交感条件のように神様を頼り祈るというのは、ずいぶんこの世界の経済原則に沿ったご都合のいい宗教だ。

てめえの利益をうたう宗教はダサイという思考が当たり前になるといいな。




「ポニョはこうして生まれた」第2巻つづき引用


「油絵は物だった。情報じゃない」

「情報は間違う。物は刻々と変化する」

「もう一度ルネッサンスをやらなきゃいけない」

「いまはイメージボードより前の段階だ」

「魚なんだけど波」

「大丈夫かなこれ。こんな恐ろしいこと描いていいのかな」

「これはしばらく描きたくなかったイメージ」

「まだそこには行きたくない」

「四六時中考えなきゃ思いつかない」



はっきり言って、もうこの時点で映画のすべてが出ていて、宮崎駿の頭の中にすべてあるのがわかってくる。

だがしかし、それを認めないというか、決定しなくて、延々踏みとどまっていて、よりクオリティの高い物に引っ張り上げようとしているのがだんだんわかってきた。

だけどこれは周りからすれば、早く決めてくれよ、という結構いらいらする話で、こういう潤沢なスタジオシステムと権力に支えられてこそなのだなと思った。