2010.03.31
性差

飲食店でバイトしてた時、女性は女性同士で来るときと彼氏なんかと来るときは食べる量が全然違くて、女性同士での場合はほんと信じがたいくらいの量を食べていた。いや食らうという表現のほうが適当か。
性差について考える。
ラカンの「女は存在しない」
三島の小説に女はいたのだろうか。
司馬遼太郎の小説を読むと、さらっと衆道の気の記述がよく出てくる。
昔の男色というものは、異性愛とはまったく別次元のもっとかる~い、なにか喫茶的な感覚だったのだろうか。ちょっとタバコを吸うみたいな。友愛的なものをそこに見るのは現代的な視線にすでに侵されているのかもしれない。
このまえ、ジュンク堂の漫画コーナーに行ったら美男子同士の性愛をテーマにした漫画がかなりの広い範囲のそれもかなり目立つ位置にぎっしり陳列されていた。女子の間で戦国ブームなのもそういうのと関係があるのかもしれない。
ラーメン屋に行ったら、女性が二人だけいて豪快にズルズル音を出しながらラーメンを食べていて、テーブルには空のお皿がかなりの数並んでいたのだけど皿までは食べれなくて、ぼくが入店してからしばらくすると大人しくなって、朝も昼も食べてなくて、めったにこんなに食べることないんだけどー、とか会話していた。ほんとだろうか。個人的にはいっぱい食べる女性は素敵だと思うのだけど。
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2010.03.30
白
グラフィックデザインでも人生でも一番重要なのは余白である。
と唐突に言ってみる。
デザインのうまい人は余白のコントロールがたくみである。
余白ってなんだろう。
余白と白は同義か。
余白という字のなかに白があるけど。
人生の余白って、なんのことだろう。
絵の具の白。
エリンギの白。
石けんの白。
骨、あるいは骨壺の白。
ミルクの白。
障子の白。
カルピスの白。
ティッシュの白。
シーツの白。
白への讃歌。
図であり地でもあるかのような白へ。
光の三原色を混ぜると白になる。
白と珈琲は相性がいい。
隈研吾のカップ&ソーサーほしい。。
これで珈琲を飲みたい。突如物欲に目覚める。
隈デザイン
2010.03.29
ありふれた風景

ラジオでは毎日、同じ女性ヴォーカルの曲が流れている。
もはや強制的に聴かされているにちかい。
洗脳。
ラジオでは毎日ジャパネットたかたがセールスしている。
ジャパネットたかたの売り手の声はみな社長の声に似ている。男性にしては少し高めのあの声が人を消費へと誘う声だという。ガラスを爪で掻いたような声にしか聞こえない。
養老さんの講演を聴いた方の話。
養老さんはどんな場合であっても薬を絶対飲まないそうだ。
それは薬というものがいまだに何故効くのか医学では必ずしもよくわかってないからだそうだ。
もちろん副作用についてもよくわかっていない。
そんなものを飲む、いや飲まされるなど言語道断らしい。
手術で使われる麻酔薬もなぜ無痛状態になるのかよくわかってない。
オペをする医者に試しに訊いてみてごらんなさい。
麻酔薬はなぜ作用するのですか、と。
すぐさま不機嫌な顔になる。
答えられる医者は誰もいない。
そういった医学体系を中心にした社会にわれわれは住んでいる。
だから東洋医学だと言いたい訳ではないが、
少なくとも支配的なものと正しく善だということとは関係がない。
ピルを飲んでた女性。
あんなに豆粒より小さい薬が計り知れなく身体の方向性を決定づけてしまう。
薬は恐ろしいと思った。
製薬会社は今日も開発し供給し売り続けている。善悪の彼岸で。
2010.03.28
自分自身の主であれ

テレビでこの人はめちゃくちゃ素敵な笑顔の女性だなあと思っていたら、梨花だった。
バラエティのイメージが強かったので、梨花だとはつゆとも思えなかった。
イメージ!
デジタル放送では出演者たちの皮膚の肌理までよく見える。
龍馬伝なんか見ると、皆どーらんを顔に塗っているのがよくわかる。
メイクもデジタルに適した方法が開発されるかもしれない。
坂本龍馬という男はつくづく時代の支配的な思考からフリーな人だったのだと思った。
切腹とか人斬りだとか、あるいは攘夷や土佐といったものでさえ彼を支配することはできなかった。
そういった時代が強制する枠組みの外にいるということは相当に難しい。
たとえば現在でいえば、どのようなことなるのだろうか。
お金が万能であるかのような現在の世界から自由であること。孤独というものを強制されたり、なにか競争に勝つことが主眼だったり、体育会系の人間がウケがよかったり、もたついたり、ためらったりすることが忌避される。経済原則から遠く離れた事は無駄なこととして排除される。そんな世界から自由であるため方法は、まずすべてを疑ってみることだろう。そしてクレイジーであること。笑われること。
いろんなものが待ち構えている。
それは情や欲、あるときは愛といったものに扮装して、われわれを絡めとろうとする。
自分自身であることが、一生をかけたそれぞれのテーマなのだと思う。
しかしそう語った瞬間に「自分探し」という言葉が社会の側から優しげに差しだされて翻弄しようとする。
それに付随した商品が開発される。
そんなときは猫とか鳥の鳴き声を聴けばいい。
干した布団の太陽のにおいとか。
2010.03.27
ありあまるほどの

昼には微笑ましい菜の花たち。
夜、ヘッドライトで照らされると反道徳的な菜の花の姿が浮かび上がった。
10代20代30代とそれぞれ見える現在の世界の風景は違う。
同じ風景だと思って触ると大きく火傷を負ってしまうこともあるだろう。
いままで軽々と持ち上げていたものが、急にズシリと重く感じることもある。
そんなことを京都の友人に話したら、椎名林檎の「ありあまる富」を聴くように勧められた。
早速youtubeで聴いたら、重いものが吹っ飛んだ。めちゃくちゃ元気が出た。
このような生の肯定の仕方はロジカルでは理解できていたものの、体の芯から得心できた体験はこれが初めてだった。
われわれはすべてを失ったと思っても、それでもありあまる富なのだ。
生命があるかぎりはね。
なにも盗めないし、なにも盗まれない。
ほらね君には富が溢れている
2010.03.26
訃報の景色
なんとはなしにネットの訃報欄を見ていたら、
映画美術の木村威夫氏が死んだことを知った。
鈴木清順の様式美は彼なしにはあり得なかった。
映画美学校にいた頃は何度か教えを乞うた。
20代の僕らよりもずっとパワフルで講義は圧倒的な迫力があった。
映画にはまだまだやられてないことだらけだよと語っていたことが印象に残っている。
美術じゃなくて監督をやるからと言っていて、冗談かと思ったけど、それから10年後の90過ぎてほんとにメガホンをとった。
こんなエネルギーの塊の人でも死ぬのかと、訃報を知ってまず一番に思った。
鈴木清順の映画「ツィゴイネルワイゼン」は20歳の僕を打ちのめした。百回は見た。
ありがとうございました。
映画美術の木村威夫氏が死んだことを知った。
鈴木清順の様式美は彼なしにはあり得なかった。
映画美学校にいた頃は何度か教えを乞うた。
20代の僕らよりもずっとパワフルで講義は圧倒的な迫力があった。
映画にはまだまだやられてないことだらけだよと語っていたことが印象に残っている。
美術じゃなくて監督をやるからと言っていて、冗談かと思ったけど、それから10年後の90過ぎてほんとにメガホンをとった。
こんなエネルギーの塊の人でも死ぬのかと、訃報を知ってまず一番に思った。
鈴木清順の映画「ツィゴイネルワイゼン」は20歳の僕を打ちのめした。百回は見た。
ありがとうございました。
2010.03.25
ホテル

ふと深夜に目覚めると見覚えのない天井やベッドのシーツに包まれている。
遠出していることを瞬間忘れる。
山の形は当たり前だが、その地域地域で全然違うもので、僕は山の形状でその地理的安心感というのか、地理と精神を結びつけて生きていることに気づいた。
僕がそこに存在するという場合のそこには山と自分の位置関係で定められるポイントのことだった。だから見覚えのない山の形は、見覚えのないホテルの天井やベッドと同じように、私を特殊な異邦の者にする。
ホテルの部屋には必要最低限のものしか置かれておらず、その殺伐感が嫌いではない。
テレビの横に据え付けられている箱に100円をインサートすると10分間だけHビデオが見れるというのもおもしろい。このサービスは人間としての最低条件のなにかなのか。決して過剰なサービスではない本能として認められている。
ついお金を入れて見てしまう。そのHビデオの中身がホテルのルームサービスのマッサージ嬢といつのまにかHしてしまうというシチュエーションで冒頭の1カット目が部屋のドアノブのショットから始まるのだけど、それが今いるホテルの部屋のドアノブとそっくりでカフカ的迷宮世界に紛れ込んでしまったかと思ったほどド胆抜かれた。
淀川長治はなぜホテル暮らしを死ぬまで続けたのだろうか。
2010.03.22
風にふかれて

強烈な低気圧の通過のせいか、頭痛がひどく耳が一日中つーんとしていた。
エレベーターなどで高いところにあがったときに耳が気圧の関係で変な感じになるやつ。
頭痛をすると脳の形が分かってくる。
右半分のこめかみあたりの側面だけが痛い。
そういった形がくまどれる。
そんななか、環境イベントでツリーハウスを大勢でつくる。
木の上で竹を編み組んで床や柵をつくっていく。
下は絶壁だったが、竹の強度は心強いものがあった。
木の枝の形に合わせて竹を組んでいくので、造形は偶然性を取り入れたアート的なものになった。
ハウスというよりテラスという感じか。
竹の加工のし易さが素晴らしく、裸足だと肌触りが気持ちよくて子どもたちはみな自然と素足になっていた。
自然の場に一日いるだけで、体のなかに眠っていたものが目覚めるような感覚がはっきりとある。
平坦でない地で身体を左右にバランスをとっていくだけで、わきあがってくるものがある。
子どもたちは皆コケて、つまづき、血を流しながら、動物のような野生児に戻っていった朝から夕方までの過程が見ていて素晴らしかった。
※明日から出張で圏外、いや県外へ。ブログはちょこっとお休み。
2010.03.21
植樹から

植樹をする。
カシとナラ。
全国各地で行われている植樹祭のようなイベントは企業の売名行為がほとんどである。
植えっぱなしなので、そこから実際育って大木になるのものは、ほとんどないかもしれない。
ただ木を植えるという行為の精神的な側面には注目しなければならない。
それは未来とか希望といった現在の生の肯定と関わる行為、もっと言えば「信じる」ということに繋がっているのではと植えながら思った。
タルコフスキーの映画「サクリファイス」では核戦争が起きた日に老教授が木を植える有名なシーンがある。
こうやって文章にしてしまうと象徴的すぎて「臭い」けど、映画ではありえないほど海辺の波しぶきが当たりそうなほど近いところに美術スタッフがこしらえたような木を植える、というか立てる感じで、その非現実的なところが素晴らしい。
2010.03.19
間合いとか距離感とか。

人によってそれぞれの間合いがある。
異性と同性、あるいは好きな人、苦手な人によっても変わってくるだろう。
そういった距離感をうまくもってない人がたまにいる。
異様に近すぎたり、逆に遠すぎたり。
適切な距離感というのが社会的な立場に応じてある。
相手が女性の場合は正常な意識しない距離の限界というものがあって、それを踏破されて近すぎると急にむらむらしてしまう。じぶんの獣性と出会う。そのへんの距離感がむずかしい。
昔の武士やあるいは銃を持ったアメリカ人はある距離を越えられたら容赦なく刀を抜きピストルを発射するだろうし、そのゾーンの枠内へは愛欲や友愛でもってしか入る事ができない。
許されざる間合いの感覚というのが、動物としての人間にはあるのか。
都会の満員電車のあの壮絶な距離感の廃棄は、なにか人間としての尊厳さえ奪っているような暴力感がある。