2010.02.26
It
あるプロテニスプレイヤーが試合中の激しいラリーの最中に悟りに至る。
激しいボールの打ち合いのただ中に、対戦相手が消えて、観客の声も聞こえなくなる。
完全な平静。
トロフィーとかではなく、無垢な感情の体験。
完璧な感動。
自己のまるごと。完全体。
それ以外になにもない。
浅田真央さんは、自身のその超絶的な技術を手放すことができるほどの震える「それ」が演技中にやってきたら、あるいは「それ」を受け入れることができたら世界一になれるだろうと勝手に思った。真央さんとスケートの間にはなにもいらないのだ。直でつながること。
キム・ヨナも荒川静香もきっと「それ」を見ている。鈴木明子もきっと見たに違いない。「それ」は涙があふれるしかない至高の体験をもたらす。プレッシャーとかメダルとかどうでもよくなる。それ自身であることの幸福。
最後のステップを踏んでいるときに、これで五輪が終わってしまうのがもったいないと思うくらい滑っていて幸せな時間だった。
なにもかえられない、ここにしかないもの
向上心がふつふつと湧いてきて五輪は凄いと思った。
鈴木明子さんの言葉。
生への深い肯定があふれていた。表情にも。
「それ」は特別な時間。
4年に1回というよりも、生涯で1度か2度の。
上司の携帯を奪ってたまたま見た、鈴木明子選手の生の演技。
携帯の小さい画面からでもしびれるような感動が迫って、お昼のオフィスでひっそりうるっときてしまった。
とめどもなく感動が体の底からわき上がって来た。
エクスタシーのようだった。
オリンピックに出ている人も、これを見ているあなたも私も同じ「選手」です。
激しいボールの打ち合いのただ中に、対戦相手が消えて、観客の声も聞こえなくなる。
完全な平静。
トロフィーとかではなく、無垢な感情の体験。
完璧な感動。
自己のまるごと。完全体。
それ以外になにもない。
浅田真央さんは、自身のその超絶的な技術を手放すことができるほどの震える「それ」が演技中にやってきたら、あるいは「それ」を受け入れることができたら世界一になれるだろうと勝手に思った。真央さんとスケートの間にはなにもいらないのだ。直でつながること。
キム・ヨナも荒川静香もきっと「それ」を見ている。鈴木明子もきっと見たに違いない。「それ」は涙があふれるしかない至高の体験をもたらす。プレッシャーとかメダルとかどうでもよくなる。それ自身であることの幸福。
最後のステップを踏んでいるときに、これで五輪が終わってしまうのがもったいないと思うくらい滑っていて幸せな時間だった。
なにもかえられない、ここにしかないもの
向上心がふつふつと湧いてきて五輪は凄いと思った。
鈴木明子さんの言葉。
生への深い肯定があふれていた。表情にも。
「それ」は特別な時間。
4年に1回というよりも、生涯で1度か2度の。
上司の携帯を奪ってたまたま見た、鈴木明子選手の生の演技。
携帯の小さい画面からでもしびれるような感動が迫って、お昼のオフィスでひっそりうるっときてしまった。
とめどもなく感動が体の底からわき上がって来た。
エクスタシーのようだった。
オリンピックに出ている人も、これを見ているあなたも私も同じ「選手」です。
2010.02.25
夜のみかん

夜の薄明にみかんが輝いていた。
風の強かった今日は、いっぱいみかんが落ちていた。
拾われることを待っていた。
冬の間は車の窓をあけて運転することはないけど、
今日のような暖かい日は、車中の温度も上がるため、窓を開けて運転する。
風とか騒音とかが直に車内にはいってきて、冬はもう終わったんだと思った。
雨がはげしい。
キム・ヨナは浅田真央のことを「もうひとりの私」と語った事がある。
この感覚ってすごい。感動的ですらある。
2010.02.24
失語
言葉を落とす。
呆然として座する。
言葉が、去年もろともふっとんじまった。
蠅が飛んでいても、とくに追い払うこともなく、その飛来を見つめる。
lost lost lost
亡命者の春。
暖かい日にきく鳥のさえずえりは優しかった。
空気を切るのではなく、空気を結びつけていた。
生き残れよ。
呆然として座する。
言葉が、去年もろともふっとんじまった。
蠅が飛んでいても、とくに追い払うこともなく、その飛来を見つめる。
lost lost lost
亡命者の春。
暖かい日にきく鳥のさえずえりは優しかった。
空気を切るのではなく、空気を結びつけていた。
生き残れよ。
2010.02.22
はらわた

梅は簡潔。
これ以上削ぎ落とせない。
だけどそれだけで音楽を奏でている。
力強く。
無視できない。
夜中に唐突におなかをくだす。
いま何時かもわからず、なんども厠へ。
眠たいのと寒いのと出したいのとが激しくせめぎ合う。
どこからか赤ちゃんの夜泣きの声が聞こえてきた。
壁から聞こえて来ているようだった。
おなかをくだしながら、臓器のことを思う。
臓器には意識があるんじゃないのかと思ったりする。
たましいはどこにあると言ったときに、それは脳を指差すことはない。
胸にたましいがどうしてもあるような気がする。
ガッツを示す場合、胸を叩く。
切腹の最高形式はみずからの腸をすべて表にさらけ出すことだという。
みずからの腹が黒くないことを証明するのだ。
そこに曇りや嘘がないことを腸によって。
腹をくくる。
自腹。
腹をわる。
腹を決める。
あえて肚(はら)という字を当てたいのだが。
肚はとても大事な概念として捉えられている。
相撲の四股踏みとか、すり足で歩くやつとか、ぶつかる前のぐうっと拳を地に着けて前屈みになる姿勢とか全部肚に力が入るようになっている。たまに会社に朝早く着いて体を温めたい時に、ひとりオフィスでこっそりやっている。自然と気合いが入る。
ああ今日は2という数字がいっぱい続く日ですね。
関係ないですが3という数字が好きです。
子どもの頃は偶数が好きでした。やさしいイメージがありました。特に2と6が好きでしたね。
いまは奇数にぞくぞくします。でも7はとっつきにくい感じがします。3がしびれますね。
この感覚はなんなのでしょう。
2010.02.21
きょうのチェーホフ
「いやはや、なんのために議論になったのでしたかな!初めは健康のことだったのに、死ぬ話になっちまうなんて!」
「なんというざわざわした夜だろう!」とわたしは思った。「なんといいのだろう!」
夜の闇を初めとして、鉄板や、墓標の十字架や、その下で人びとが騒いでいる木々までのすべての自然に、ざわめきと不眠とを見たかった。
『子どもたち・曠野』
2010.02.20
所作のデザイン

おいしい紅茶をいただく。
カップとソーサーのデザインに眼がいく。
把手は「熱くなく/カップを/手で/口まで/もっていく」という機能が無事に完遂されればどのようなデザインであってもよい。それは半分社会の側が要請している「制度」でもある。そこにデザイナーの「自由」「創造」こういってよければ戦いの場の範囲が限定される。カップの中空の穴(くぼみ?)も液体がこぼれない設計であればよい。ソーサーとはなんだろうか。カップとどのような関係を結んでいるのだろうか。ミルクやシュガーのゴミを置く場か。ソーサーにこぼれたコーヒーを飲むことがためらわれるというのは、すでにカップの外の概念として捉えられているからだろうか。
思いの外、この把手はもちやすく、肩の力を抜けさせてくれる。もつというより、つかむという行為にいつの間にか転換している。
このカップとソーサーはデート向きではなかろう。非対称でオーガニックなラインはもっとくだけた、開放的な野外なんかで粗雑に扱われてがぶがぶ飲まれてもいいかもしれない。唇が触れる縁の厚みがそれを語っている。激しい所作をこのソーサーはいつも受け止めるものであってほしい。
デザインにはいろんなものが含まれている。
果たされる所作まで含めて未来につねに向かっている。
そして生活を変えていく。
デザインは社会を少しでも良くする事に関わっていると思うし、そうであってほしい。
それは政治や宗教では決してできない。
そんなことを考えた、思いがけなく快晴の土曜日。
2010.02.19
雪のエチカ

あさがた雪がちらついていた。
車のフロントガラスに雪が落ちてもすぐに溶けることなく、しばらくガラスに張り付いていた。
寒さが極みに達すると雪国に住んでいた頃のことを思い出す。
雪国の冬は長い。果てしなく。
だいだい10月末くらいから4月の頭くらいまでが冬のイメージだ。桜は4月の末頃咲く。ゴールデンウィークにさしかかることも。だいたい1年の半分は冬ということになる。8月もお盆を過ぎれば、夜は肌寒いものとなる。すべてが煌きのもとにある夏は天国そのものだった。あらゆる生命体が伸び上がっていた。道端の小さい無人の小屋の中で野菜が売られているが、11月に入るとぱたっと野菜がなくなって長い冬がこれからやって来ることを知らせた。ため息とともに。冬はすべてが凍結していく灰色の世界だった。マイナス15度は寒いというより痛かった。
それゆえ皆が春を待ち想う気持ちもかなり強いように思えた。春は待ち遠しいというより切実な願いのようでもあった。それはやはり九州なんかとは違うシビアさがあった。雪は楽しかったり美しかったりするものではなく、はっきりと生活を阻害するものとして、われわれの前に対峙していた。季節の節目節目に祭りが あった。現実の季節気候とぴったりと符号していた。
2010.02.18
内なる帝国/インランド/エンパイア
たとえばウォーホルの感動とマティスの感動は経験の質感が全然違う。優劣云々ではなくて。
じぶんがこうしたいと漠と思ってたようなことを先んじてやられていると、感動のなかにも嫉妬や悔しさも混じってくる。そしてなぜか元気が出てくる。
デイヴィッド・リンチの「インランド・エンパイア」をやっと見た。
見てしまったと言ったほうが精確だ。
見てしまったからには、それ以前の世界に戻ることは決してできない。
オウムの地下鉄サリン事件とか、アメリカの911とか起きてしまったことの決定的な、もう前に戻る事ができない世界の風景を変えてしまった出来事。インランド・エンパイアはそんな映画。
アート映画でもカルト映画でもましてやホラー映画でも即興的映画でも決してない。人類の記憶あるいは夢とでも呼びたい総合的な「ぜんたい」が写されている。どのショットも油断ならない。念写で映画を作るとこうなるだろうみたいな。でもどの映画にも似ていない。ついに映画はそこに「人間」を写すことができたのかもしれない。多分何度でも見るだろう。自分を見ているようだ。そしてそれは単なる映像ではなくて、やっぱり映画としか呼びようがない強度を確かにもっている。不気味なくらいに。不気味なものをとらえることに成功している。音楽と照明への強い確信だけがわたしをなんとか導いてくれた。おっぱいを露出させるシーンとか性交のシーンとかその性的な刺激がどこにも落ちていかない。
他の作家の比較ではフォン・トリアーに近いが、比べれば比べるほど別種のものに見えてくる。フォン・トリアーは映画全体のコントロールを決して手放してはいないけど、リンチはなにか別の原理に身をまかせている。
混沌では決してなくて、むしろ理路は整然としている。ただ回路の繋がり方がちょっとわからないだけで。でも分かる必要もないだろうし、分かったからといって、この映画をわかったことにはならない。
学生の頃つくられていた自主製作の8ミリフィルムの感触の方が近い。誰にも期待されてないけど、勝手につくられて誰からも見られることなくロッカーに眠っているような8ミリフィルム。自主製作についてあらためて考えさせられた。じぶんも映画を撮りたいと思わせた「人間」のための映画。
リンチの全作品をもう一度見直したいと思った凍れるような夜でした。
ちょっと町から外れて、街灯のすくない場所に立つだけで、星の数が倍ほど見えた。
2010.02.17
内なる帝国
亀が車の流れをぬって道路を歩いていた。持って、近くの池に返した。
今朝方、見て感動した光景が、別の人のブログの写真として載っていたシンクロ。
話していて、ああこの人は心がきれいな人だなあと思える瞬間が不意に訪れることがある。
それはなにか、そのひとの内側にある子ども時分の感覚とか素の感じとかが不意に露呈してしまった瞬間に立ち会えたこと。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた都会の朝の電車。アウシュビッツの光景をいつも想起せずにはいられなかった。
少し遅い時間に通勤ピークの時間を過ぎて家を出ると、電車には人はまばらで座ることができて、つまり人と人の間に隙間や空間があって、窓の景色がよく見えて、朝の光が床まで届いて、光で車内が貫かれていて、このいま同じ電車に乗っているみんなは同根同士じゃないかと、根拠はないがしかし押しとどめる事のできない力強さで感じてしまって泣きそうになった。
このみんな同根じゃないかという感覚は不意にわたしを襲うことがあって、この前も疲れて帰った夜に大きな交差点の信号機で知らないもの同士横一列に並んで青信号を待っていたときにも、ここに並んでるみんな同じだろと強い感情がせりあがってきたのだった。
朝のひかりとか夕焼けのどうしようない永遠性を見ると、光は贈り物、贈与のものだと実感することがある。宗教的感情と詩情のあいだ。
二重まぶたにもいろんな種類があるように思える。ぎょろっとしていたり、眼力が強かったり、バター系だったり。二重でありながら目元が涼しい人が好きなのだった。ほんとに涼しく感じるのでした。
今朝方、見て感動した光景が、別の人のブログの写真として載っていたシンクロ。
話していて、ああこの人は心がきれいな人だなあと思える瞬間が不意に訪れることがある。
それはなにか、そのひとの内側にある子ども時分の感覚とか素の感じとかが不意に露呈してしまった瞬間に立ち会えたこと。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた都会の朝の電車。アウシュビッツの光景をいつも想起せずにはいられなかった。
少し遅い時間に通勤ピークの時間を過ぎて家を出ると、電車には人はまばらで座ることができて、つまり人と人の間に隙間や空間があって、窓の景色がよく見えて、朝の光が床まで届いて、光で車内が貫かれていて、このいま同じ電車に乗っているみんなは同根同士じゃないかと、根拠はないがしかし押しとどめる事のできない力強さで感じてしまって泣きそうになった。
このみんな同根じゃないかという感覚は不意にわたしを襲うことがあって、この前も疲れて帰った夜に大きな交差点の信号機で知らないもの同士横一列に並んで青信号を待っていたときにも、ここに並んでるみんな同じだろと強い感情がせりあがってきたのだった。
朝のひかりとか夕焼けのどうしようない永遠性を見ると、光は贈り物、贈与のものだと実感することがある。宗教的感情と詩情のあいだ。
二重まぶたにもいろんな種類があるように思える。ぎょろっとしていたり、眼力が強かったり、バター系だったり。二重でありながら目元が涼しい人が好きなのだった。ほんとに涼しく感じるのでした。