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雨の休日もまた味わい深かった。
小さい雨粒が途切れることなく降っていた一日。
歩いても、車に乗ってもどこからか白梅が視界の端に見えてくる。
白梅の清冽さ。
厳冬なほどに清冽さが研ぎ澄まされてくる。

ボールを真上に投げると、ある最頂点まで達し、そこでいくばくか静止したかのように頂点に留まって、落下を始めていく。冬の一番寒いときを頂点とし、まさに落下を始めようとするときに、つまり冬から別種のものへと移行しようとするまさにその時に梅が咲くようなイメージがじぶんのなかで勝手にある。

四季があって、いろんなうつろいを見たり聴いたり嗅いだりができる環境が奇跡のように思えてくる。



別冊太陽の「今森光彦とめぐる里山の四季」はどのページを広げても胸が高鳴る。
それは鮮明な四季の移ろいといったものが、感じにくくなっていることの証左でもある。本を見てそれを噛みしめるというのも悲しいことだが。

寒い時は寒く、暑い時は暑いこと。
その節目節目に祭りやら収穫やらやるべきことがあって、そういったものも絶望的なまでに失われていっている。使わなくなったセンサーは壊れていき、そもそもなかったものとなってしまう。

冬のしるし
別冊太陽より シカの足跡

生命を謳歌することと四季をあじわい楽しむことはじぶんにとって同じこと。


2010年最初の月も今日でおしまい。
すべて過ぎ去っていくんですね。


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2010.01.30 夜の雨足
誘惑されている若い男は、誘惑という言葉にいちばん反撥をかんじる。小島信夫


人の道に外れることはしたくないけど、監獄にはいって、ずううっと本を読んで思索してみたいと思う。
外部の情報が遮断され、定期的に健康的な食事が用意され、起床や睡眠が管理され、適度な運動もあるような環境は監獄しか思いつかない。まあ、もちろん罪の重さに打ちひしがれる日々ではどうしようもないが。

最近身辺の情報の多さにうんざりしてきた。雪の中を歩いて、自分の足音だけ聴いていたい。

フィギュアスケートのことはよく知らないのだけど、荒川静香が活躍していたころと今の浅田真央が活躍しているフィギュアスケートのルールは全然違うらしく、いまはとにかくジャンプを何回転したかとかが重要なポイントとなっているようだ。このルールに変わってからもう戦えないと思って荒川静香は引退を決意したらしい。ジャンプの回転数とかが焦点となっているゲームが面白いとはとても思えないのだけど。。


雨音が外から聞こえてくる。夜のしとしと雨を部屋うちで聴くことのよろこび、幸福感。


4時だよ

4時ねこさん。くろ目が大きいよ。

あ、そう言えば昔、人を判断するのに、あの人は黒目が大きいとか、あの人は小さいとか、やたら黒目の大きさにこだわっていた女の人がいた。はじめて会ったときにまず。あ、黒目大きいですねと言われたことを思い出した。黒目を大きく見せるコンタクトもあるらしいから、やっぱ目の印象は重要なのだろう。ぼくは耳のほうが気になったりするのだけど。

2010.01.29 賢者の石
ゆきのした


ぼくの勤めている会社の給料はいまどき珍しく手渡しでなされる。
現金を社長から直接渡される儀式が存在する。
通帳に支払われた給与の数字がポンと増えるのと、生の札束をポンと渡されるのでは体験がまるで違う。自分のひと月の汗やら苦悩やらが実際のモノとして目の前に具現化されていることは身体性を伴っている。重さだったり、紙幣の匂いだったり。毎年12月の給与はすべて新券、つまりピン札を渡される。それをもって新年を迎えるわけだ。
 
口座振り込みで数字が変わるデジタルの経験と厚みのあるアナログとの体験の差。
 
お金には良かれ悪しかれ、ある種の力が宿っていることを現金を見るとよくわかる。
それはどこまでもただの紙でありつつ、ただの紙ではない。
 
子どもの頃見た忘れ得ぬ「ギャートルズ」という原始人たちが活躍するアニメには大きな大きな石の貨幣が出てくる。それを使うために彼らは売買する場所へとそれをしんどそうに転がしながら運んでいた。それ自体が労働となっていた。
 
もう既にお金が紙になっている時点で多くのものを失っているのかもしれない。
 
手渡しで渡される給料はとても重い。残念ながら多くもらっているという意味ではなくて。存在としてとてつもなく重い。こういう体験はお金の見方を変えてくれた。

どなたか過去の記事をたくさん読んでいただいて、拍手をたくさんしていただいているようで、とても嬉しいす。ありがとう!

後輩の妹の飼っているぬこさん。模様が時計の針のようで、4時ねこと呼ばれているらしい。もう人間です。掲載許可ありがとうね。よすぎます。

ねこねこさん

木であって木ではないかも



今日はすごしやすい気候でしたということをラジオで聞く。
「すごしやすい気候」は今日みたいな日のことを言うのだということを思い出す。

室内と外の差があまりないというか、外へ出る際に上着を着て無意識裡にも身をぐっと縮めて、寒さにたいして構えをとる必要がない気候。体のどこにも力を入れる必要がない。
じぶんだけかもしれないが、冬は体ぜんたいが凝っている感覚が明確にある。関節とか筋肉とか。
 
関係ないが、じぶんのいまの状態を肯定できない人は両腕をまっすぐに天にむかって伸ばすことができないということを聞いたことがある。この場合はどうにも両手を素直に天にむかって伸ばすことに心理的に抵抗が生じるらしい。この感覚って興味深い。みなさんはどうでしょうか。

 
歌を歌うということは、なにかと強烈に同期しているから気持ちがいいのではないかと思う。
それはもちろん音楽との同期ということもあるのだけど、音楽という媒介を利用してもっと大きな律動に身をまかせようとしているのではないか。

体が音楽に合わせて自然に揺れ動いてく。

この世界は波に見られるような律動やバイブレーションで満たされている。

光もひとつの振動なのだろうか。

光に心震えるときは、光のつぶだちの振動たちを見ているのだろうか。

セックスとかいびきとかしゃっくりも貧乏ゆすりも吃音も、この世界からの放たれるリズムを身体が受容しているのではないか。(北野武の首をカクッとする動きとかもきっとそう)

宇宙全体に響いているおおきなゆりかごのリズムに身をまかせよと、たしか埴谷雄高が語っていたような。

合気道って、こういうことを体認しようとしている武道なのではと思う。

声とか音は振動でもある。スピーカーが揺れるように。
なにかが届くためには、こういった揺れが必要なのだ。
加藤被告は「揺れる」ということをきっと誰からも何からも受けなかったのだろうか。

なにかに感動したり揺さぶられたりすることは、考えている以上に相当重要な体験なのだ。


a cappella


自由、夜


夜、会社から出たら外がなまぬくかった。夜は昼より寒いはずという経験知による身体的予測を外して、脳よりも身体のほうがまず戸惑っていた。


「24」みたいな一度見ると次々何巻も見たくなる系のDVDがレンタル屋に行くとたくさん並んでいる。ぼくも「24」シリーズにはまっていたことがあったけど、なにかああいうのにはまっているのは人生を「消費」している感がとてもしてしまって以後見ることがなくなった。

人間はある決まった間隔の定められた時間を生きていて、まあそれをどのように使おうとも勝手で自由なのだが、やっぱり消費というか浪費はしたくないよなという思いがあって、24とかを見ることは時間の浪費にちかい感じがあって、それはじぶんにとって、時間を無駄に過ごすことよりもさらに下位のものなのだった。
 
それは映画やドラマにおける物語とはなんだということとも関わっている。ああいう系のドラマはどこまでも消費されるための物語、ジェットコースターに似た、ある速度を味わうためだけの物語で、そのへんの薄ら寒さがどうにも耐え難いというのか怖いのだけど、あいかわらずそういった系のDVDは量産されていて、そし て多く支持されている。

じぶんはできれば同じ時間を生きるにしても楽しく生きたいと思っているけれど。

スポーツでは、試合の組み合わせの関係で消化試合というものが発生することがある。まあ無理して勝たなくてもいい試合というやつだ。だいたい主力を温存させてサブのメンバーが出たりするのだけど、こういった消化試合的姿勢、消化試合的生き方と24とかを見て時間を浪費していることが唐突な連関に感じるかもしれないが、じぶんにはとても似たものとしてある。

 
24のなんのシーズンだったか忘れたけど、母親が殺されるシーンがあった。監督はもうひとつ母親は死んでなかったシーンも撮っていた。人の死がドラマの興奮に従属する機能として扱われていたことに、とても驚いた。
 
ヌーヴェルヴァーグはなんだったのだろうか。

 
物語は取り返しのつかないもの。人生がそうであるように。



車の運転というのは、生身でその人と向き合うよりもはるかにその人の性格や気質を表現する。朝はみんな苛々してるなというのは他の人の車の動きを見ると鮮明にわかる。車という機械、媒体を通すことでかえってその人間が浮き彫りになるというのはおもしろい。そこには極端な単純化が発動しているのだろう。ブログにしてもそうで、ブログというものを通すことでその人となりがとてもよくわかってしまうというか、伝わる。たまに書くのならともかく毎日書いている場合はごまかしようがなく表にあらわれてしまう。そんなところがブログのおもしろいところのひとつ。

ブログという形式が過去について綴ることを促すのか。過去について考え記述する事が自然になされる。それにくらべツイッターは「今」を記述するのに確かにふさわしい形式だ。

ブログにおいてはなぜか、自分の場合あまり未来や将来について書く気にはなれない。まあかと言ってネガティブな心持ちで書いているわけでもないけど。ニュートラルな状態だと思う。たいがいが夜書かれ、たいがい酒がはいっているけど、酩酊しているわけではないし、適度に醒めてはいる。三島か誰かが言っていた酔いつつ醒めつつの状態。あまり論を組み立てるということもしないというか疲れていてできないが、いままで届いていなかった地点まで手を伸ばせればとは思っている。

光がしんじがたいまでに全力で光であった一日。光の前に表象できなくなった事物はただただ輝きをもってきらめきに溺れていたような気がします。日本の冬は晴れ間が基本的に多いけど、今日ほど光の強度が強い日はそうそうない。会社のわたしの机の前にある大きな窓からは山の中を縫う道路が見えて、そこを車が通るたびにきらっきっらと太陽の線光を車体が反射し、その間隔がなにかの信号かのようのように見えました。


2010.01.25 つめたい草
昔の本棚


東京にいた頃は電車通勤だったけど、毎朝何度も何度も考えたのは、このまま停車駅で降りずに千葉とか埼玉とか終電まで乗っていったらどうなるのかなあということだった。ま現実逃避というやつだが。逃避すればもっとひどい現実が待っていることが容易に想像できたのでしなかった、できなかった。宮沢賢治のなにかの小説のように電車がそのまま浮き上がってそのままどこかへ行ってくれれば、それは「自然」に逃避できたかもしれなかった。じぶんにとってのブログは現実の延長線上でありつつ、なにか浮き上がるような電車のようでもある。

ずっと以前に映画の仕事をしていた時に、小学校を舞台にした映画に関わったのだけど、そこに出演した子どもたちは名だたるモデル事務所とかから来ていて、最近そのなかの一人の女の子のブログを偶然見つけて、もうすっかり大人に成長していて、顔の印象は昔の面影が残っているのだけど、なんか水着とか着ているのを見るとなんか見てはいけないものを見てしまったかのような罪悪感さえおぼえる。

酒井若菜さんの熱愛報道。芸能人のブログなど悪いけど、おためごかしばかりで読む気にもなれないのだが、彼女のブログはなんかひしひしと真面目というか本音でネガティブなことなんか綴られていて好きでよく読んでいる。よいイメージをいかに形成するかが商品としての芸能人の命だと思うのだけど、痛々しいまでの本音がいつも書かれていて清々しい。そんなブログにはみんな人生相談をもちかけるのだった。


蛍の光の音楽を聴くと妙におしっこが行きたくなる。きっと誰かに催眠かけられてます。


2010.01.24 抑圧と解放
out of blue


雲がないから空がこわいくらいに無限に広くみえた。
空をフレーミングする枠がない。

平和すぎるほどの休日に惰眠をむさぼる。
じぶんは長く眠ることでストレスを解消している。
逆に長い睡眠が欲しいときは、ストレスがたまっている証と考えている。
長く眠り、2度寝なんかをすると、眠りが浅くなり、いろんな夢を見る。
まさにフロイト的な抑圧されていたものが、夢で噴出して動揺する。
抑圧されたものがうまい具合にブレンドされているのだけど、それを自然なものとして夢の中では受け止めている。

お気に入りの和食屋さんがあるのだけど、この前行って厨房の方を見たら「和風おかずの基本」という本が置かれてあるのが見えて、すこし興ざめす。

トラウマのように何度も見る夢の定型がじぶんにはあって、ひとつは新聞配達をしていて不着(配り忘れ)をしてしまいとても怒られ再び届けるシーンと大学で授業を欠席しそれがために留年するはめになるというふたつの悲劇を何度でも冷や汗をかきながら見る。

夢は何度でも繰り返し再生し恐怖をやわらげるための優しさを、解放のためのヒントを提供しているのだろうか。



高校2年のころ病気でなくした友人のお墓参りにふと行ってみる。
17回忌と墨字で書かれた卒塔婆があった。
阪神大震災が今年で15年目で、それはぼくが予備校生の頃だったから、高校2年だとその2年前だから17回忌で合っていると正確な月日の経過を確認することになぜかこだわった。かなしさもよろこびもない。ただただ時間の厚みにめまいがする。17年はもはや受け止めきれないほど遥かすぎるなにかだった。ちょうど彼女が生きた年と死んでからの年が重なり合った時間の厚み。

写真はそんなときに広がっていた空を写したもの。ちいさい真昼の月が印刷されたかのように浮かんでいました。



2010.01.23 同じ歌
雪とご神木


青春って、いったいいつの時期のことなのかという問いがある。青春は心のもちようなどとは決して思えない。それには確実に始まりがあって終わりがある。(生涯青春とはまわりに迷惑をかけるだけだが、そんな生き方もまたありかもしれない)

大学生の人たちと一緒にいて彼らをみていると、いまのじぶんにはもうとっくの昔に失われたものが、彼らの中に燦然と輝きを放ち保たれていたりするのを見ることができたりする。そういうのを見ると、ああもうじぶんには青春というのはないんだなと思う。

じぶんの考える青春のそれを記述することは難しい。
年齢で一般的に括るのも違う気がする。
高校で終わる青春もあるだろうし、老いてから突如として花開く青春もあるだろう。

損得とかこれをやればこれだけのものが返ってくるとか、そういったこととはまったく無縁な世界に没入できる環境に生きていることは間違いなく青春の特権であるだろう。それは一種の無謀ではあるが、無謀には掛け値なしの輝きがある。

龍馬とか幕末、明治維新における日本人の生き方に心打たれるのは、そこに触れているからだと思う。
脱藩など人生で何度でもできることではない。

世界との齟齬に引き裂かれて、すすり泣く夜など生涯に何度もあることではない。




「小鳥のように同じ歌を一生歌い続けるのは難しい」

部屋の片付けをしていたら小学校の卒業文集が出てきて、ぱらぱら読んでいたら寄せ書きに記憶のない先生からの言葉が書かれてあって、小学生相手にこういう意味深な言葉を送ったのは、きっとあとから読み返される事を想定していたに違いないと考え、いまその先生のメッセージが届いたような気がした。同じ歌が歌えなくなることと青春の終わりはどこか関連している。